【狼と香辛料 第1巻(支倉凍砂)】狼と行商人の出会い、そして旅の始まり
先日、『狼と香辛料』第19巻の感想・考察エントリを書いた。
tkntkn0703.hatenablog.comシリーズ全てを振り返る意味を与えてくれる傑作であった。
19巻を読んでシリーズを最初から読み返したくなった方も多いであろう。
私もその一人である。
というわけで今回は、19巻を読み終えた今『狼と香辛料』第1巻(以下「本作」)を再び読んでの感想・考察を書いていきたい。
読者を一気にその世界観に引き込む「序幕」
どんな小説においても、冒頭というのは非常に重要な意味を持つ。
それは「吾輩は猫である。*1」や「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。*2」など1つのセンテンスの場合もあれば、1~数ページ程度のワンシーンを指す場合もある。
余談であるが、『吾輩は猫である』を『猫』と略して呼ぶのが何となく格好良いものに感じてしまうのは私だけではないと思うのだが、いかがだろう。
『カノン*3』のように一般名詞を固有名詞として使用することに妙な憧れを覚えるのだ。
それに感化されて普段は『狼と香辛料』を『狼』と呼んで悦に入っている。
ただ『狼と羊皮紙』が刊行されたり、サブタイトルにも『狼と~』というものが多かったりで紛らわしいのでブログ等では使いづらいが…。
閑話休題。
本作では1ページ少々の「序幕」がその「冒頭部分」を成しているのだが、このたった20行の文章が『狼と香辛料』の世界観を完璧に表している。
もちろん、本作の主題である経済・商取引の話は全く出てこないので「ストーリー」が見える訳ではないが、一面に広がる金色の麦畑や、そこで儚げに佇むホロの姿などは、シリーズを通じて常に読者の頭に浮かんでいる画だろう。
それは挿絵やアニメの記憶かもしれないが、心の深い部分ではこの短い文章によって想起されているように思う。
ところで、ある程度の『狼と香辛料』ファンが本作の「序幕」を再読したら感じると思うのだが、この「序幕」はビジュアルブック『狼と金の麦穂』と雰囲気が非常に似ている。
「ビジュアルブック」とは洒落た言い方だが、要するに絵本だ。
『麦穂』も今回改めて読んでみたのだが、これもまた実に素晴らしい作品である。
もともと絵本という形式にすれば映えるのは間違いない作風であるが、短めの一文をぽつぽつと紡いでいく文体は、穏やかで温かい印象と共に、たわけとの旅を遠くに思う賢狼の一抹の寂しさも滲み、淡い金色の空間を作り出している。
「ホロ」や「ロレンス」などといった人名、あるいは村の名前など、固有名詞を一切出さず、どの時系列のどの場所での出来事かをぼかしているのも、この独特の雰囲気を作り出す一つの演出だろう。
ロードムービー的作品特有の感傷
さて、そろそろ本編の話をしよう。
パスロエ村――
古くからの『狼と香辛料』ファンであれば、この「パスロエ村」という名前を聞いただけで懐かしさに目頭が熱くなることだろう。
そう、二人の長い旅路の始まりとなるのが、広大な麦畑の広がるこの村である。
二人がまだ出会う前、孤独な行商人ロレンスの姿がそこにあった。
そんなロレンスの様子を見たり、村の名前に懐かしさを感じたりというのが、どこか既視感を覚えた。
それは、やりこんだRPGを気まぐれに始めからプレイしたときの感覚だ。
主人公がヒロインに出会う前の、穏やかで何も変わらない村での暮らしを続けている様子を見るような、そんな感覚だ。
(上記には微妙に合わないが「マサラタウン」といえば我々20代後半にはわかりやすいかもしれない)
これは『狼と香辛料』がロードムービー的な作品であるが故に感じたものだろう。
結末を一度見ている旅の始まりを再び見るのは、懐かしさと、その後の波瀾万丈の旅路を思い、なんとも言えず感慨深くなるものだ。
日の浅さ故の絶妙な距離感
『狼と香辛料』の大きな魅力と言えば、ロレンスとホロのバカップルぶり……もとい、掛け合いの妙だが、序盤は若干違った様相を呈している。
ホロの賢狼っぷりに慣れていないロレンスがひたすらにからかわれる場面が続くのだ。
19巻現在ではロレンスも幾ばくか年を重ね(ホロと体も重ね、ってやかましいわ)、多少からかわれることはありつつも、互いに絶大な信頼関係をもってじゃれ合っている。
それはそれで砂糖菓子のような甘さが大変心地よいのだが「美少女(しかもケモ耳)にからかわれる」というシチュエーションに勝るものは無いだろう。
ロレンスも下手に頭がいいものだから何とかホロをやりこめようとするが、そこは賢狼様のこと。年季の違いを見せつけてくれる。
支倉凍砂は2人いる説
『狼と香辛料』を読んでいて思うのが、支倉凍砂氏は2人いるのではないかということだ。
深い知識に裏付けされた経済・商取引に関するストーリーの構成。
そしてサッカリンの如く甘ったるいロレンスとホロの掛け合い。
この2つの柱を1人の人物の手によって作り上げることなど果たして可能なのだろうか。
「経済パート」担当の支倉氏と「イチャコラパート」担当の凍砂氏。
「支倉凍砂」という小説家は、実はこの2名によるユニットではないかという仮説を立ててみたのだが、如何だろうか。
……と思いたくなるぐらいに、どちらの柱も人を圧倒する力を持っていると言いたいのだ。
気まぐれで1巻を読み返してみたが、一度読み終えた今ならではの魅力が多くある作品だと実感した。
シリーズをお手元にお持ちの諸兄は、このタイミングで手に取ってみてはいかがだろうか。