【伊豆の踊子(川端康成)】ロリコン文学としての『伊豆の踊子』鑑賞法
先日、伊豆半島を旅行してきた。原付で。
1泊2日、総走行距離611kmというなかなかフザケた旅行であった。
伊豆といえば『伊豆の踊子』ということで、劇中で主人公が宿泊した湯ヶ野温泉の「福田家」にも足を伸ばした。
(この欄干の下が例の川)
訪れたのが平日の早朝だったというのもあるかもしれないが、静かで落ち着いた雰囲気が漂っており、非常にいい場所であった。
というわけで今回は『伊豆の踊子』についての感想・考察を書いていきたい。
…が、ノーベル賞作品である本作の考察など、既に世界中の真面目な評論家たちが語り尽くしているだろう。
私にできることがあるとすれば、本作をロリコン目線で語ることぐらいだろう(それすらも散々語られているかもしれないが)。
本作は孤児根性に歪んでしまった主人公の心が踊子との交流によって和らいでいく様が高く評価されているとのことだが、主人公の心を和らげるほどの踊子の純真さ・可愛らしさそのものが作品の一番の魅力だと私は思う。
その点についてなるべく詳しく分析していきたい。
シーン別に見る踊子の魅力
踊子との初めての交流
突っ立っている私を見た踊子が直ぐに自分の座布団を外して、裏返しに傍へ置いた。「ええ……」とだけ言って、私はその上に腰を下ろした。(中略)
踊子と間近に向い合ったので、私はあわてて袂から煙草を取り出した。踊子がまた連れの女の前の煙草盆を引き寄せて私に近くしてくれた。やっぱり私は黙っていた。
初対面でこんなによくしてくれる美少女(しかもこれ以前から気になっていて何とか上手く鉢合わせできないかと腐心していた)がいたら、それは言葉に詰まりもするだろう。
ここは主人公の童貞力の高さも気になるところではあるが、踊子のその純粋な善意が、さらりと、しかし克明に描写されているシーンだ。
しかもこれが冒頭1ページ目の出来事である。
踊子の魅力は早くも主人公と読者の心をガッチリと掴んでいることだろう。
主人公は「あまりにも予想通りに踊子たちと落ち合えたためにどぎまぎしてしまった」という旨を地の文で語っているが、この動揺は明らかに踊子の美少女ぶりに当てられたものである。
もしかすると主人公本人もまだ自覚していないだけなのかもしれない。
踊子との初めての会話
「冬でも泳げるんですか」と、私がもう一度言うと、踊子は赤くなって、非常に真面目な顔をしながら軽くうなずいた。
恐らく踊子自信も、自分の言っていることがおかしいと途中で気付いているのだろう。
そこで「やっぱり違った」ということを上手く説明することもできず、ただただ赤面してうなずくことしかできないお子様っぷりがまた可愛らしい。
短い会話であるが、非常にちんちんにクるワンシーンだ。
真裸で湯殿から手を振る踊子
言わずと知れた本作随一の名シーンである。
その裸身を若桐に例えるなど、踊子自身の描写も大変美しい限りであるが、その少し前に周囲の情景を短くも情緒溢れる文章で表現しており、それのおかげで踊子が朝の川辺の風呂場から元気よく手を振る様子をはっきりと思い浮かべることができる。
さて、真裸の踊子が出てくるこのシーンであるが、これをエロいものであると捉えるか否かは議論が尽きないところだろう。
このシーンで勃起するかどうかでいえば、私は勃起はしない。
ただ、「勃起しない = エロでない」という結論づけも早計であろう。
踊子が手を振る姿を思い浮かべてロリコン的な意味でグッときたのは間違いない。
しかしその一方で「心に清水を感じ」るというのも、私は非常によくわかるのである。
男の邪な気持ちと清らかな感情を同時に沸き立たせる、純真無垢ゆえの魔性とも言えるのではないだろうか。
何故か五目並べが妙に強い
「五目並べが弱い方が可愛らしいのでは?」と思う方もいるだろう。
確かに弱いのは弱いので可愛いのかもしれない。
しかし諸君、よく考えてほしい。
通常の囲碁であればともかく、五目並べが強いというのは不思議な子供っぽさが滲み出ていて無性にドキドキしてこないだろうか。
「五目並べが弱い」はただの萌え要素、「囲碁が強い」はただのギャップ。
「五目並べが強い」というのが他にはない踊子だけの魅力なのである。
そして段々と我を忘れて碁盤に覆いかぶさって来る姿、これは単純に可愛い。
主人公がロリコンか否か
恐らく識者の間でも意見の分かれるテーマであろう。
主人公は20歳*1で、踊子は14歳。
出会ったばかりのころは踊子のその風貌から17,8歳ぐらいだと思っていたという。
そもそも私は大正時代の小児性愛に対する感覚の違いなどについて明るくないので迂闊なことは言えないが、主人公が踊子に恋愛感情(に近いもの)を抱いていたことは間違いないだろう。
主人公の言動からして「親子のような」やら「兄妹のような」やらといった感情を当てはめてしまうのは逆に無粋というものだ。
ただ、ロリコンを最も試される「踊子が真裸で手を振るシーン」に関して言えばどうだろう。
「朗らかな喜びでことことと笑い続け」ている様子は、とてもロリコンのそれとは思えない。
序盤は17,8歳だと思っていてどぎまぎし、風呂の場面で子供だと気づいてことこと笑い、それ以後は子供に対する接し方になる……という展開であればスムーズで納得がいくが、この後の五目並べの場面などではまた踊子を異性として意識している。
序盤にも少し書いたが、主人公が自分の感情をはっきりと整理できていない部分も大いにあるのだろう。
まとめ
終盤の大事な展開などを全てすっ飛ばして書いた今回のロリコン的「伊豆の踊子論」はいかがだっただろうか。
今まで『伊豆の踊子』をそんな目で見たことがなかったという人も、これをきっかけにこちらの世界を垣間見ていただくことができれば私としては幸いである。
また、第1回の『レオン』に関するエントリも含め、「ロリコンが語る映画・文学シリーズ」として今後も続けていきたいと考えている。
興味のあるロリコン諸兄は是非とも読んでいただきたい。
*1:全て数え年表記