ロリとノスタルジーと芥川龍之介
今回はじっくりと「ロリ」について語りたいと思う。
「ロリ」そのものよりも、その周辺と言ったところだろうか。
COMIC LO
ロリを語るにおいて絶対に外せない存在が、ロリ作品専門成人向け雑誌「COMIC LO」である。
成人向け雑誌らしからぬ独特の雰囲気を持った表紙や、「Yesロリータ!Noタッチ!」のコピーなどでロリコン以外からも認知されることもしばしばあるLOは、世のロリコンたちの自意識に多大な影響を及ぼしていると思われる。
その中でもロリコンの脳に殊にすり込まれている思考の一つが、「ロリ」と「ノスタルジー」の結びつきであろう。
今でこそ私はこの結びつきを当然のように意識しているが、もしもLOの存在がなければ、想像力の貧しい私がこれをハッキリと自覚できていたかどうか怪しいところである。
焦点をLOの表紙に向けてみる。
LOの表紙には少しエロい回もあれば全くエロくない回もあるが、どちらの場合も大なり小なりのノスタルジーや儚さ、そして若干の不安を感じるデザイン(イラストとコピー)になっている。
ロリコン達はこれを毎月目にすることで、自然と「ロリはノスタルジックで儚いもの」という印象が植え付けられるだろう。
この思考が染みついてくると、世の多くのロリ作品にノスタルジーや儚さを見いだすようになってくる。
芥川龍之介「あばばばば」
私がLOの表紙に最も近い感覚を覚えたのは、芥川龍之介が大正12年に発表した小説「あばばばば」である。
現在は青空文庫で公開されており、短編ですぐ読めるので、未読の方は是非とも読んでいただきたい。
雑貨屋の店番をしているヒロインはロリではない(主人公曰く「やつと十九位」)のだが、主人公にミスを指摘されて顔を赤らめるなど、非常に初々しい少女である。
しかし、物語の最後では、ヒロインは一児の母となっており、「あばばばばばば、ばあ!」と子供をあやす姿を主人公が目撃してしまう。
主人公と目が合っても、ヒロインは恥じらいもせずに子供をあやし続ける。
ついこの間まですぐに顔を赤らめていた少女が、いつの間にか「度胸の
この作品を読み終えたとき、真っ先に「あ、LOの表紙っぽい」という感想が浮かんだ。
芥川龍之介の作品に何を言っているんだと思われるかもしれないが、LO読者ならきっと理解していただけるはずだと信じている。
少女とは儚い故に美しいのである。
電脳コイル
ロリの話に戻ろう。
「ロリ」と「ノスタルジー」が切り離せないのは、ロリ作品の性質上、小学校を舞台にした作品が多くなるのは当然で、それが自分の記憶と重なるためというのが大きいだろう。
例えば「電脳コイル」だ。
基本的にはシリアスなSF作品である本作だが、特に序盤は小学生同士がわちゃわちゃと戯れているような描写が多い。
当人達は本気なのだろうが、客観的に見れば「未来的ガジェットを使った子供のケンカ」である。
小学校の校舎内での男子対女子の抗争のシーンなどは、電脳メガネさえ除けば、誰もが子供の頃に目にし、体験したワンシーンなのだ。
全体的にやや暗めな画面の色合いや、駄菓子屋や神社といったある意味わかりやすい要素は、ノスタルジーを強く想起させる。
これはロリコンの戯言と思っていただいて全く問題ないのだが、ノスタルジーが存在するとそれと常に一対になってエロも見いだせないだろうか。
……引くどころか「何を言っているのか全くわからない」とお考えになるのも大変よくわかるが、私はそうなのだ。
恐らく、自分の脳内で「ロリ」と「ノスタルジー」が完全に結びついてしまっているために、ノスタルジーを見ると「うわっ!エロい!」と"脳がうっかり"(ラジオ深夜の馬鹿力「空脳アワー」より)してしまっているのだと思う。
電脳コイルは健全な作品です。
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とりあえず今回は「ロリ」「ノスタルジー」「あばばばば」「電脳コイル」の話をまとめてできればよかったのでこんな感じで〆。
「チロリン堂の夏休み」「陽差しの中のリアル」「今日の5の2」あたりの話もしたかったが、まあ今回のエントリに興味を持った方であれば楽しめる作品だとは思うのでよろしければ是非。