Do you see the GIRL

元・アニメ制作進行の自分が、アニメを見ての感想だったり、映画を見ての考察だったり、エロゲをやって勃ったことだったりを書いていくブログです。

【ラムネ2(ねこねこソフト)】「やかま」な後輩との「良い日常」の魅力

「日常系」というジャンルの人気が高まって久しい。

数年前の異様な熱狂ぶりこそ収まっているかもしれないが、それでもなおアニメ・漫画業界の主流ジャンルの一つであることは間違いない。

エロゲにおいても昔から人気のあるジャンルで、それ故に半端な作品ではその数に埋もれてしまうだろう。

 

今回は、2004年にねこねこソフトより発売されたエロゲ『ラムネ』の13年ぶりの続編『ラムネ2』について、主に「日常系」としての面に焦点を当てて綴っていきたい。

 

「焦点を当てて」などと書きはしたが、そんなことを考えずとも『ラムネ2』はとにかく「日常系」である。

主人公にもヒロインにも特殊な能力などは一切なく、作中では大きな事件なども起きない。

恐らく作品のコンセプトとして「日常を楽しむこと」を主目的に置いているのだろう。

「複雑で壮大なストーリーを書くのが面倒くさいから「日常系」でお茶を濁しているんじゃないか」という批判をする輩もいるかもしれないが、私はむしろ逆だと考える。

確かに「日常系」は万人受けしやすく、「そこそこのモノ」を作るにはうってつけのジャンルであろう。

しかし、大事件が起こらないという制約の中で本当に人の心に刺さるものを作るというのは至難の業だ。

『ラムネ2』は、日常描写の「雰囲気の良さ」で常に私の心を揺さぶり続けた。

この「雰囲気の良さ」というのは文章で伝えるのが非常に難しく(筆者の力量不足もあるが)、また「ストーリーの良さ」以上に人によって好みが分かれるだろう。

 

例えば映画『ショーシャンクの空に』の良さは、難解な箇所はほとんどなく映画の最初から最後まで完璧に組み上げられたシナリオであろう。

それに文句を付ける人は少ないだろうし、その「ストーリー」という大きな魅力が多くの人に愛される最大の理由だろう。

 

逆に『横道世之介』という映画は、ストーリーにあまり起伏のない、世之介の周りで起こるちょっとした出来事をのんびりとほどよいコミカルさで描く作品だ。

良い意味での「雰囲気映画」なのだが、それが琴線に触れない人にとっては『横道世之介』は凡作に成り下がるようで、かなり賛否は分かれているとのことだ。

 

話を『ラムネ2』に戻そう。

そんな「雰囲気の良さ」を推したい本作であるが、中でも特に気に入っているのがこのシーンだ。

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「放課後になった」というただそれだけの言葉。

立ち絵もなくただ空だけが映される画面。

しかし、このシーンこそが『ラムネ2』という作品のエッセンスが凝縮されたシーンなのだ。

神谷の「やかま」っぷりがこの一言に端的に表れており、「ウザい」と言いたくなるけれど、そのウザさが愛おしくてしかたないという感情が湧き上がってくる。

「放課後」というだけでそれが一つのイベントとなる作風も象徴している。

 

そして、何よりも感じる、夏――。

 

未プレイのかたは、是非ともご自身でプレイしてみて、この「雰囲気の良さ」を感じていただきたい。

www.youtube.com明るい曲なのに、聴いてると何故か涙が出そうになる。

 

初代『ラムネ』の主題歌「ラムネ」(歌:Duca)

www.youtube.com2の曲も好きだが、一番好きなのはこの曲だ。

【狼と羊皮紙 第2巻(支倉凍砂)】"沈黙"する神

(※『狼と羊皮紙』2巻 ネタバレあり)

先月、映画『沈黙‐サイレンス‐』(以下『沈黙』)を拝見した。

「信仰」とは。また、信仰を持つ者にとっての「神」とは。

私自身は信仰を持たず、映画の内容を現実的に捉えることは難しかったが、それ故に「信仰」という存在を強く叩きつけられた素晴らしい映画だった(原作も拝読したが、かなり昔のことであまり覚えていないので今回は映画準拠で話を進める)。

 

ただ、今回書くのは『沈黙』についてではなく、ライトノベル『新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙』(以下『羊皮紙』)についてである。

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前作『狼と香辛料』では中世ヨーロッパ(風の世界観)での経済・商取引が主題だったが、その中で宗教(教会)の存在は非常に重要なものだった。

『羊皮紙』では聖職者を志す青年コルが主人公ということもあり、宗教が作品の主題となっている。

今回は先日発売された第2巻について主に書いていきたい。

 

修道士オータムにとっての「信仰」

公式サイトでの第2巻のあらすじは以下のようになっている。

港町アティフでの聖書騒動を乗り越えた青年コルと、賢狼の娘・ミューリ。恋心を告げて開き直ったミューリから、コルは猛烈に求愛される日々を送っていた。
 そんな中、ハイランド王子から次なる任務についての相談が。今後の教会勢力との戦いでは、ウィンフィール王国と大陸との海峡制圧が重要になってくる。そのため、アティフの北にある群島に住む海賊たちを、仲間にすべきかどうか調べて欲しいというのだ。
 海賊の海への冒険に胸を躍らせるミューリであったが、コルは不安の色を隠せない。なぜなら海賊たちには、異端信仰の嫌疑がかけられていたのだ。彼らが信じるのは、人々が危機に陥ると助けてくれるという“黒聖母”。不思議な伝説が残る島で、二人は無事任務を遂行することができるのか――。

 これだけを見ると、海賊を相手取った冒険譚のような内容にも見えるし、劇中序盤でミューリもそれを期待している様子だったが、実際の内容は読者の予想とミューリの期待を大きく裏切るものだった。

 

本作の中で最も印象的だったシーンを尋ねたら、恐らく多くの人が「島の少女が奴隷商に売られるシーン」を挙げるだろう。

修道士オータムがその売買を指揮しており、そこにある罪、少女の父親の怒りなどを一身に受ける壮絶なシーンである。

「信仰がある故の自己犠牲」と言ってしまえばそれで片付くかも知れないが、そんなに簡単なものでもないだろう。

島全体を守るためとはいえ、修道士が人身売買など絶対に許されるものではない。

オータムは今回の件だけでなく、今まで幾度となく同じ事を繰り返し、その身に罪を背負い続けている。

少女の売買を終え、それを見ていたコルに向けてオータムが放った印象的な言葉がある。

「私は幸いである。神は、あらゆる罪をお許しになるのだから」

当然、言葉通りの「許してもらえるからラッキー」的な軽い意味ではない。

純粋な信仰がある故に、神の教えを信じて、自分が正しいと思うことを愚直なまでに貫けるのであろう。

もし、オータムに信仰がなく、ただ島を守りたいという正義感のみに突き動かされているのだとしたら、罪の意識や重圧に押しつぶされてしまってこれを続けることはできなかっただろう。

また、島の人々にとっては、幼い子供が奴隷に売られるなどということもなかっただろうが、そういった「間引き」をしないことには島はあっという間に滅びてしまっていたはずだ。

 

オータムを恨みに恨んで生き続けるか、すぐに終焉を迎えるか。

 

この選択自体もどちらが正しいかなどあるはずもない。

忘れてならないのは、この劇中で「信仰に従って自分の信念を貫き通した善人」という印象を持たせるように描かれたオータムだが、それが本当に正しかったかどうかは、それこそ「神のみぞ知る」ものだということである。

 

『沈黙ーサイレンスー』との関係性

さて、冒頭にて『沈黙』について少し触れたが、『羊皮紙』2巻と『沈黙』両方を読んだ/見た方であれば、少なからずその共通性を感じることだろう。

「信じる者は救われる」とは現代日本においてはもはや冗談めかして言われる言葉であるが、極端な話をしてしまえば『羊皮紙』も『沈黙』も、この言葉についてひたすらに掘り下げた作品といえるのではないだろうか。

 

どんなに苦しい目に遭っても信じるものがあるから乗り越えることができる。

しかし、そもそもその宗教に出会っていなければそこまで苦しい目に遭わなかったのではないか。

永遠に答えが出ることのない問いだが、それ故に読者/観客はその作品を読み終えた/見終えた後もずっと自分の中で考えることができる。

本を読んでの感想で「考えさせられた」というのは安直で非常によろしくないものだというのはわかっているが、この両作品で深く考えさせられたのは間違いないだろう。

 

また、これは単なる深読みに過ぎないのかもしれないが、『羊皮紙』2巻の劇中にも『沈黙』の影響を臭わせるシーンがある。

神はなにをしているのだ。どうしてそこから出てこないのだ。祭壇の上で堂々と広げられている、雪が放つ仄かな光りに照らされた教会の紋章旗を睨みつけても、沈黙しか返ってこない。

 「沈黙」という単語が使われているに過ぎないという指摘もあるかもしれないが、この単語の意味するところが両作品とも共通している。

『沈黙』というタイトルは「切支丹たちがこれほどに苦しい思いをしているのに、なぜ神は沈黙したままなのだ」という意味合いで付けられている。

作品のテーマの共通性から見ても、この一節は『沈黙』に対するオマージュを示しているのではないかと踏んでいる。

 

全てはラストシーンへの布石

このように、今回の『羊皮紙』2巻は、前作『香辛料』を含めても恐らく最も重い内容となっていた。

しかし、前作からのファンであればわかっていると思うが、これらの重厚に作り込まれた本編は、全て最後にコルとミューリ(前作ではロレンスとホロ)がイチャイチャするための布石なのだ。

このように書くと、本編は不要でイチャイチャシーンだけ書いていればいいのではないかという勘違いも生まれそうだが、決してそういうことではない。

たとえ同じ内容のラストシーンでも、本編のシリアスさがなければ、その魅力は半減してしまうだろう。

本編の練りに練られた重々しさがあって初めて、あのラストシーンが輝くのである。

 

特に『羊皮紙』2巻については、作者の支倉凍砂氏もあとがきにて以下のように書かれている。

道中が重かった分、今回の最後のシーンは、結構お気に入りです。

作者自身もお気に入りのラスト。

その甘々っぷりを存分に楽しませていただいた。

 

華奢描写の大家・支倉凍砂

その甘ったるさを体中から発しているヒロイン・ミューリとその描写について詳しく書いていこう。

中世ヨーロッパ(風)の世界観とその文体は、ミューリの描写にも深く関わってくる。

 

たとえばこの文章。

(前略)ここでミューリという温かい湯たんぽのような少女のことを抱きしめ返したら、(後略)

現代を舞台にした作品では絶対に出ないであろう「湯たんぽのような少女」という言葉。

子供の体温の高さを情緒溢れる言葉で表現しており、ロリコン的にも非常にグッとくるものがある。

 

また、ミューリのその華奢さの表現も支倉氏は卓越している。

以下は霜焼け防止のためにコルがミューリの足に熊の油を塗るシーンである(まずこのシチュエーション自体が大変興奮する)。

皮膚の薄い華奢なミューリの足に油を擦り込みながら、言った。

ヒロインの足の裏の皮膚の薄さを描写したライトノベルがかつてあっただろうか。

「硬い・柔らかい」という表現は使用せずとも、ミューリの足の裏のふにふにした感触がこちらにまで伝わってくるようだ。

 

そして以下は、作品の世界観を発揮してミューリの華奢さを表現した"合わせ技"である。

ミューリの細い肩を掴むと、ぐいと引き離した。

ミューリの身体は華奢で、天使のように軽かった。

「天使のように」という表現は、現代が舞台の作品でも使えないことはないかもしれないが、神の教えに身を置くコルだからこそ説得力のある描写といえるだろう。

 

まとめ

真面目な話からいつもの性的な話まで、読者に様々な考察をもたらしてくれる『狼と羊皮紙』。

今後もその絶妙なバランスとヒロインの圧倒的な可愛らしさを期待していきたい。

 

(※5/22追記 本編『狼と香辛料』第19巻の感想・考察エントリも書いたのでそちらも是非。)

tkntkn0703.hatenablog.com

【シン・ゴジラ】ゴジラへの恐怖と応援する気持ちの同居

3.11と「シン・ゴジラ

7月31日の暑い日の朝、僕は初代「ゴジラ」を見ていました。

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白黒の画面の中、焼け野原になっていく東京の街を見ながら、終戦から9年しか経っていない1954年に「ゴジラ」を見た当時の人たちの心中がどんなものだったのだろうかという空想が頭の中をグルグルと巡っていました。
しかし、空想は空想にすぎず、頼りのWikipediaの「当時の人々は~」といった記述は単なるネット上の記述にすぎず、実際のところは当時見た人に尋ねる以外になく、ご老人に知人の少ない僕にはそれを知る手立てはありません。

その日の夕方に見たのが「シン・ゴジラ」でした。

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誰が見てもわかる通り、3.11を強く意識して作られた作品です。
今回「シン・ゴジラ」を見て覚えた感覚が初代「ゴジラ」を見た人のそれと全く同じとは言えませんが、50年後に「シン・ゴジラ」を見た人には味わえない感覚だと思うと、大変貴重な経験をできているとは思います。

3.11関連で更に言えば、件の原発事故があり、とにかく「原子力」というものに対して敏感になった日本において、もう二度と(少なくとも僕が生きている間ぐらいの期間は)ゴジラ映画は作られないだろうと思っていました。
仮にできたとしても、「原子力」の設定はかなり控え目になると思ったのですが、ここまで真っ向から描写されていたのは意外です。そしてその点について「不謹慎だ!」と騒ぐ人がほぼ見受けられないのは更に意外でした(もちろんゼロではないんでしょうが)。
(少なくともフィクションにおいては)「原子力」を題材とすることについて問題が無いということを知らしめたのは、日本のエンタメ業界に大きな影響を与えたのではないでしょうか。

 

造形

まず、予告編などでパッと見た感じでは、平成シリーズで育ってきた僕にとって、ゴジラが帰ってきたと素直に思わせてくれる印象でした。
ギャレス版がアレだったからでしょうか…。
赤くただれた皮膚やら目の印象やら尻尾の異常な長さやら、明確に差別化してきた部分は多々ありましたが、あくまで"ゴジラ"の範疇で「格好良く」「恐ろしい」デザインに仕上がっています。
長い歴史の中でデザインも立ち位置も大きく変わっていったゴジラですが、原点を辿ればあくまで「恐怖」の象徴です。
予告編やポスターといった情報の少なかった時点でもその恐怖はビシビシ伝わってきたのは、怪獣の造形として非常に優れていた証拠と言えるでしょう。

 

恐怖

恐怖という意味でゴジラの原点に戻ったという印象も受けますが、実際に感じる恐怖や絶望感は圧倒的に初代よりも「シン・ゴジラ」の方が上です(映像技術の進歩があるので当たり前かもしれませんが)。
何をどうやったって人間はゴジラには勝てない、もう地球はお終いだ…という絶望感は、過去のゴジラシリーズだけでなく、今まで観たあらゆる作品の中でもトップクラスでした。

例えば「ウルトラマン」ならウルトラマンが助けに来ますし、「アイシールド21」ならヒル魔の奇策が残っていますし、安い少年漫画ならご都合主義で上手くいきますし、良い少年漫画なら主人公がそれまで培ってきた努力が理にかなった展開を経て開花します。
しかし、「シン・ゴジラ」ではゴジラという存在以外は徹底的にリアル路線です。
スーパーXのような超兵器もなければモスラのような人間を守ってくれる怪獣もいない。

取り得る手段は、自衛隊か、ヤシオリ作戦か――核。

なのでこの3つのうちの「自衛隊」がタバ作戦失敗で破れたときにはこの世の終わりを感じましたね。

 

負けるなゴジラ

ところで「シン・ゴジラ」を観ていて「ゴジラ負けるな!」と思ってしまった人はどれぐらいいるのでしょうか。
僕はタバ作戦の中で一瞬その感情が芽生えました。

最初は口径の小さめの銃火器から攻撃を始めて、徐々に火力を上げていく作戦内容だったのですが、火力が上がっていく中で、ゴジラに着弾したときの爆煙も徐々に大きくなっていきます。
そして、ゴジラの大部分が爆煙に包まれ、パッと見ゴジラにかなりのダメージを与えているように見えます。
ゴジラ登場からずっと「どうやって倒すんだろう…」と考え、終盤は「ヤバい!もう人類滅びる!!人間頑張れ!!」と思っていたのですが、このときだけは「え…こんなに爆撃食らってゴジラ大丈夫なん…?ゴジラが負ける…?いやだ!ゴジラ頑張れ!!」とゴジラを応援していました。
制作側が狙ってこう感じるように演出したかは知る由もありませんが、不思議なことにあの一瞬だけはゴジラ側に感情移入していました。

僕は平成シリーズを見て育ってきた人間なので、ゴジラは「人間の味方ではないけど悪い怪獣じゃない」という印象がすり込まれているのでしょうか。
これは元々ゴジラに対して持っている印象によって全然変わってきそうですね。

 

終わりに

ラストシーンの人間っぽいアレは何なのかとかストーリーに関する考察は気が向けばまた。
でもそんなの他の人がとっくにやってるだろうからなぁ…。

日常系好きにも楽しめる「異色終末SF」4選

第8回は、「異色終末SF」と題して、一風変わった終末SF作品について語っていきます。
そもそも終末SFとは何ぞやということで、Wikipedia「終末もの」の概要を引用します。

終末もの(しゅうまつもの)あるいは破滅もの(はめつもの)とは、フィクションのサブジャンルの一つで、大規模な戦争、大規模な自然災害、爆発的に流行する疫病などの巨大な災害、あるいは超越的な事象によって、文明や人類が死に絶える様を描くもの(Apocalyptic fiction)、あるいは文明が死に絶えた後の世界を描くもの(Post-apocalyptic fiction)である。

北斗の拳』や『ナウシカ』などの世界観を想像してもらえれば分かりやすいかと思います。
今回は、「終末」の世界観を取り入れつつひと味違った雰囲気を醸し出しているSF作品たちをご紹介します。

 

少女終末旅行(つくみず著 - BUNCH COMICS)

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タイトルの通り、二人の「少女」が「終末」世界を「旅行」する漫画です。
二人が旅を続け、その行く先々で見つけた施設やそこで出会った人々とのエピソードをかなりまったりとしたテンポで描いています。

第2話「戦争」で、主人公のチトとユーリは食料を探して旅を続けるうちに、武器の投棄場のようなところに辿り着きます。
そこで普段はボケーッとしているユーリ(画像右)がこう言います。

昔の人も食料不足だったんだよね
なんで武器ばっかり作ったの?

真面目に回答すれば、
「たまたま彼女らが辿り着いたのが武器の投棄場なだけで、昔の人も武器ばかり作っていたわけではない」
といったところでしょう。
しかし、何も知らないまっさらな目で見たらそう思うのか、とハッとさせられます。

このように、読み終わった後に少し自分の中で考えなおしてみたくなる内容だったり、かと思えば何も考えずのんびりふわふわできる日常的な内容だったり、「終末」という世界観を存分に堪能できる作品です。

冒頭に貼った画像の通りざっくりとした絵柄ですが、それが作風と絶妙にマッチしています。
見開きのキメのコマなどは息をのむような印象すら受けます。

「異色終末SF」としてご紹介しましたが、「日常もの」が好きな人でも「異色日常もの」として楽しめる作品だと思います。

Web連載で無料公開されているので是非ご一読あれ。

 

(※2017/7/5 追記)

アニメ化が決定しましたね。

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ティザービジュアルは作品の雰囲気が出ていて非常に良いです。

原作の作風が作風だけに映像化には期待も不安もありますが、今は座して待つのみです。

 

ヨコハマ買い出し紀行芦奈野ひとし著 - 月刊アフタヌーン

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1994年から2006年までの12年間に渡り連載されていた漫画です。
1998年と2002年の二度OVAが発売されました。
海面上昇により沿岸部が海に沈み、穏やかに終末へと向かっていく近未来の三浦半島(とその周辺)が舞台です。

原作1巻の表紙折り返しの作者コメントが非常に印象的です。

お祭りのようだった世の中がゆっくりとおちついてきたあのころ。
のちに夕凪の時代と呼ばれるてろてろの時間、御案内。夜の前に、あったかいコンクリートにすわって。

 OVA1期のEDでナレーション的に挿入されるので、OVA版を見た方には特に印象深いかと思います。

このコメントを読んで「おっ」と思える方であれば原作もOVA版も強くオススメします。
期待通り、あるいはそれ以上の「てろてろの時間」が迎えてくれることでしょう。

本作の主人公は「ロボットの人」の女性アルファさん。
特に4年で寿命を迎えることもなく、「滅び行く世界の中に残り続ける人」という本作中でSF的にも大事な役割を果たしています。
とは言っても上述の通り悲壮感はほぼ無く、どちらかと言えば「哀愁」という表現の方がしっくりきます。

また、本作では、「海に沈んだ街」が随所で(特にOVA版では多く)描かれているのですが、これも不思議なまでに悲壮感はなく、「美しい風景」として読者(視聴者)の頭に焼き付けられます。

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普通「海に沈んだ街」という絵は、ウルトラマンレオの1,2話など、どうイメージしようとしても絶望的な場面に繋がってしまうものです。

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それを描き方一つでこれほどまでに「あたたかいもの」として見せられているのが、本作の最も優れた点の一つだと思います。

 

人類は衰退しました田中ロミオ著 - ガガガ文庫

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2007年から2014年まで出版されたライトノベルです。
2012年にTVアニメ化されました。
ヨコハマ買い出し紀行」と少し似ていて、人類がゆったりとした終末を迎えつつある世界が舞台です。
こちらは世界観としては「ファンタジー世界の田舎町」といったところでしょうか(実際には「アメリカ」などの単語も出てくるので地球の未来が舞台ではあるようですが)。

本作の最も重要な要素が「妖精さん」です。

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今で言う人類は衰退し「旧人類」と呼ばれ、「現人類」として妖精さんが地球に繁栄しています。
非常に高度な文明を持ち、物理法則など完全に無視した道具を平然と作り出します。
主人公の「私」が妖精さん達の引き起こす事件に巻き込まれながら話が進んでいく、というのが本作の基本的な展開です。

本作は上記2作品と比べるとかなりSF色が強い作品になっています。
基本的には文庫1冊に中編が2話ずつ収められている形式なのですが、その中でもファンタジー要素の強い話、怪奇小説めいた話、タイムトラベルの話、漫画雑誌のアンケート制(あるいはそれに踊らされる読者)を痛烈に皮肉った話、実際に起こった出来事を独自の解釈で発展させた話、主人公が宇宙まで飛び出していく話など、かなりバラエティに富んでいます。
しかし、各エピソードの根底には"SF"が常に存在し、作品全体に不思議な統一感があります。

「普段はSF小説しか読まないけど、たまにはラノベでも読んでやるか」という方には大変とっつきやすい作品だと思います。

 

ドラえもん のび太と鉄人兵団藤子・F・不二雄著 - コロコロコミック

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大長編ドラえもんの第7作。
1985年から1986年にかけて連載され、連載終了直後の1986年に映画が公開されました。

あらかじめ言っておきますと、本作は終末SFではありません。
「厳密には終末SFではない」などではなく、断じて終末SFではありません。

が、実は数多くのSF作品を世に出している藤子・F・不二雄先生。
本作は大長編ドラえもんの中でも群を抜いて"SF"しています。

ロボット軍(鉄人兵団)の地球侵略、ディストピアタイムリープ、そしてもちろんドラえもんひみつ道具など、様々なSF要素がありますが、終末SF的だと感じたのは、ひみつ道具「入りこみ鏡」「逆世界入り込みオイル」で入り込むことができる「鏡面世界」という設定です。
鏡面世界とは、文字通り鏡の中の世界で、現実世界が左右反転されたそのままの形ですが人間や動物は一切存在しません。
地球を侵略しに来た鉄人兵団にのび太たちが抗戦する際、地球が破壊されないようにするため、この鏡面世界に誘い込みました。
そして鏡面世界を舞台に、強大な鉄人兵団との壮絶な戦いを繰り広げるのですが、この「自分たち以外誰もいない世界での絶望的な戦い」というのがまさに終末SFの世界観そのものなのです。

本作で最も印象に残っているのが、逃げ出したリルル(メインゲストキャラ、ロボットの女の子)とそれを追ってきたのび太が、鉄人兵団に破壊された街の地下鉄入口で対峙するシーンです。

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原作ではわずか2ページの短いシーンですが、この「地下鉄入口」という場所が、他にはない独特の雰囲気を醸し出しています。
破壊された街の絶望感、ロボットと人間の間で揺れるリルルの心、人類を守るためにはリルルを撃たなければいけないというのび太の葛藤など、多くの意味が込められた名シーンです。

なお、リメイク版である「ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団 ~はばたけ 天使たち~」で主題歌を勤めたBUMP OF CHICKEN藤原基央氏も、当時のインタビューで、地下鉄入口のシーンを「いちばん思い入れのあるシーン」と語っています。
僕自身BUMP OF CHICKENのファンなので、藤原氏が僕と同じシーンに思い入れがあると知って少し嬉しかったです。

藤原氏もオススメの本作、原作・旧劇場版・リメイク版とどれも素晴らしい出来なので、是非とも全て読んで(観て)いただきたい作品です。

 

終わりに

これらの「異色終末SF」は、一般的な終末SFが好きな人にこそ読んでいただきたいと思っています。
もちろん、予備知識がなくてもどれも大変面白い作品です。
しかし、終末SFに登場する設定の一般的な使われ方に対して、これらの作品における使われ方の特殊さや異様さがわかる人にとっては、その「違い」も大きな楽しみの一つになるでしょう。
そうでない人も、これらの作品を通して、普段の生活であまり考えることのない「終末」の世界に触れてみていただければと思います。

【O/A(渡会けいじ)】ラジオ愛から生まれた漫画

第3回は漫画「O/A」について。
http://www.amazon.co.jp/dp/B00932PDYE

O/A」は2009年から2012年までヤングエースで連載された漫画です。
作者は渡会けいじ先生。(画風はpixiv見るのが早いかと)

www.pixiv.net
アイドル・堀内ゆたかと芸人・田中はるみの二人一役のラジオ番組の様子、またその二人の成長を描いた作品です。

作品の傾向としてはかなり下ネタが多いです。
と言ってもおっぱいボロンでいやんまいっちんぐ的なモノではなく、うんこだのうんこだの笑い飛ばせる系です。
でもアイドルが開けっぴろげにうんことか言うのって、それはそれで興奮しません?

全7巻の作品ですが、いくつかに焦点を絞ってお話ししていきます。


サブキャラ里愛(リア)ちゃんがとにかくかわいい

いきなりサブキャラの話から始めるのもどうかとは思いますが、僕は主人公ゆたかのライバル海江田ミホの後輩ユニット「Marine(マリーン)」の里愛(リア)ちゃんがめちゃくちゃ好きです。
サイドテールにジト目のややギャルっぽい喋り方の女子中学生。
特徴を並べただけでも素晴らしいと思いませんか?
さらにこの子、アイドルとしてステージに立つときは目をパッチリ開いて「アイドル」の顔になる。
アイドルの子の二つの面を見ることができる一粒で二度美味しいキャラになっています。
登場回数がさほど多くないのが残念ですが、その中でも確かな魅力を見せてくれるキャラです。

 

ゆたかの姉さやかのエピソード

単行本5巻24話と25話はゆたかの姉さやかに関する話になるのですが、全体的にギャグ路線なこの作品において、ここは単純に「いい話だなぁ」と思えるお話でした。

完璧すぎる姉さやかに対するゆたかのコンプレックス。
そんな姉さやかの結婚。

話としては短いながらも、姉妹愛を丁寧に丁寧に描いたエピソードでした。
特に5巻のラストシーンは心がじんわり温かくなります。
(直後のあとがき漫画での「余計なお世話」も凄く好きでした)

作者の渡会先生は一つ一つのエピソードの組み立て方が凄く上手な方だと思います。
当たり前ですが、起承転結がしっかりしていて、読者に伝えたいことが明確というか。
しかもそれがいちいち説明臭くなく、自然に読み進めることができます。

さやかのエピソードはそんな渡会先生の良さが詰まったお話だったと思います。

 

小ネタ・パロディ

この作品というより作者の渡会先生の特徴なのですが、小ネタ・パロディがいちいち面白いです。
有名でオタク受けするタイプのパロディもなくはないですが、映画好きや音楽好きが好みそうなややニッチなパロディが多いです。
あと何故か「沈黙の艦隊」ネタがやたら多い。
僕は沈黙の艦隊を読んでないので気付いてないネタも多そうなのですが、何故かやたらに出てきます。
好きなんだろうなぁ…。

21話はサブタイトルからして名作映画そのまんまの「ニュー・シネマ・パラダイス」。
扉絵に4枚の絵が描かれているのですが、それぞれ「レオン」「ブレードランナー」「パルプフィクション」「ショーシャンクの空に」のパロディ。
他にも随所にパロディは出てくるので、それを探しながら読んで見るのも面白いかも知れません。

 

6巻の勢い

全7巻の中でエンタメ作品として群を抜いているのが6巻。
5巻の「いいハナシ感」を全てなぎ払うような怒濤のエピソードの連続です。
ゆたかがラジオリスナーへのプレゼントを100km走って届ける企画で、ゆたかが途中で何かに目覚めてしまい、槍ヶ岳や富士火力演習場をもひたすら走り続けるというぶっ飛んだ話。

そしてさらにぶっ飛んだ話になるのがその次の回。
アメリカ軍の原子力潜水艦の乗組員たちが任務中にラジオのチャンネル争いを繰り広げ、最終的には聴取者プレゼントを受け取るために原潜で横須賀港を訪れます。
恐らく上述の「沈黙の艦隊」に影響受けまくって描いたのかと。
好きなことを詰め込みまくって、それがオナニーにならず知らない人が見てもちゃんと面白いのが凄いですよね。
こういうことができる人って羨ましいなぁと思います。

 

まとめ

「ラジオ」という、言ってしまえば地味なテーマですが、話作りの上手さとオタク心をくすぐるギャグ・パロディのセンスでここまでのエンターテインメントに仕上がっているこの作品。
僕の最も好きな漫画の一つです。

【映画「レオン」】マチルダのただならぬ性的魅力

第1回目の投稿は映画「レオン」について。

1994年のアメリカ・フランス合作映画。

殺し屋である主人公レオン(ジャン・レノ)とアパートの隣の部屋に住む12歳の少女マチルダ(ナタリー・ポートマン)の共同生活、そして本作の敵役・麻薬取締局の刑事スタンスフィールド(ゲイリー・オールドマン)との戦いを描くアクションものです。

僕がこの作品を見ての一番の感想は、

「ポルノだ…」

……我ながら酷いですね。

この作品をそういう目で見ていいものか、映画に詳しくない僕にはよくわかりませんが、少なくとも僕にはそういう見方しかできませんでした。
しかし、制作側も少なからずそれを狙っているのは間違いないと思います。

マチルダ初登場時のシーンでの脚を舐めるようなカメラワークは多くの男性(主にロリコン)の心を掴んだことでしょう。
そして同シーンでの腹チラをはじめ、マチルダの衣装は常に際どく、性的です。
ナタリー・ポートマンの非常に華奢な体つきが情欲を加速させます。
マチルダは役としては「実年齢よりも妖艶で大人びた少女」というキャラクターですが、隠しきれない少女性が僕の股間をグイグイ刺激してきました。
公開当時、愛の告白やマチルダの殺しの訓練のシーンはやむなくカットされたそうですが、倫理的に問題があるのはそこではない気がします。

90年代アメリカ(とフランス)はこういった幼い少女の性表現に意外と寛容だったのか、僕がこれらを性的に感じてしまうのがおかしいのか…。

後者ですか。

世間的には名作と名高いようですが、どちらかというと「ロリータ」(ナボコフ著)のような『問題作であり名作』に類する気がします。

 

ロリコンに優しい一本になっております。


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さて、映画の内容にはほぼ触れず、マチルダがいかに少女として魅力的であるかしか書きませんでしたが、当ブログではこのようになるべくひねくれた目線でいろんな作品について書き連ねていきたいと思います。

何卒、よろしくお願いいたします。