【ラムネ2(ねこねこソフト)】「やかま」な後輩との「良い日常」の魅力
「日常系」というジャンルの人気が高まって久しい。
数年前の異様な熱狂ぶりこそ収まっているかもしれないが、それでもなおアニメ・漫画業界の主流ジャンルの一つであることは間違いない。
エロゲにおいても昔から人気のあるジャンルで、それ故に半端な作品ではその数に埋もれてしまうだろう。
今回は、2004年にねこねこソフトより発売されたエロゲ『ラムネ』の13年ぶりの続編『ラムネ2』について、主に「日常系」としての面に焦点を当てて綴っていきたい。
「焦点を当てて」などと書きはしたが、そんなことを考えずとも『ラムネ2』はとにかく「日常系」である。
主人公にもヒロインにも特殊な能力などは一切なく、作中では大きな事件なども起きない。
恐らく作品のコンセプトとして「日常を楽しむこと」を主目的に置いているのだろう。
「複雑で壮大なストーリーを書くのが面倒くさいから「日常系」でお茶を濁しているんじゃないか」という批判をする輩もいるかもしれないが、私はむしろ逆だと考える。
確かに「日常系」は万人受けしやすく、「そこそこのモノ」を作るにはうってつけのジャンルであろう。
しかし、大事件が起こらないという制約の中で本当に人の心に刺さるものを作るというのは至難の業だ。
『ラムネ2』は、日常描写の「雰囲気の良さ」で常に私の心を揺さぶり続けた。
この「雰囲気の良さ」というのは文章で伝えるのが非常に難しく(筆者の力量不足もあるが)、また「ストーリーの良さ」以上に人によって好みが分かれるだろう。
例えば映画『ショーシャンクの空に』の良さは、難解な箇所はほとんどなく映画の最初から最後まで完璧に組み上げられたシナリオであろう。
それに文句を付ける人は少ないだろうし、その「ストーリー」という大きな魅力が多くの人に愛される最大の理由だろう。
逆に『横道世之介』という映画は、ストーリーにあまり起伏のない、世之介の周りで起こるちょっとした出来事をのんびりとほどよいコミカルさで描く作品だ。
良い意味での「雰囲気映画」なのだが、それが琴線に触れない人にとっては『横道世之介』は凡作に成り下がるようで、かなり賛否は分かれているとのことだ。
話を『ラムネ2』に戻そう。
そんな「雰囲気の良さ」を推したい本作であるが、中でも特に気に入っているのがこのシーンだ。
「放課後になった」というただそれだけの言葉。
立ち絵もなくただ空だけが映される画面。
しかし、このシーンこそが『ラムネ2』という作品のエッセンスが凝縮されたシーンなのだ。
神谷の「やかま」っぷりがこの一言に端的に表れており、「ウザい」と言いたくなるけれど、そのウザさが愛おしくてしかたないという感情が湧き上がってくる。
「放課後」というだけでそれが一つのイベントとなる作風も象徴している。
そして、何よりも感じる、夏――。
未プレイのかたは、是非ともご自身でプレイしてみて、この「雰囲気の良さ」を感じていただきたい。
www.youtube.com明るい曲なのに、聴いてると何故か涙が出そうになる。
初代『ラムネ』の主題歌「ラムネ」(歌:Duca)
www.youtube.com2の曲も好きだが、一番好きなのはこの曲だ。
【狼と羊皮紙 第2巻(支倉凍砂)】"沈黙"する神
(※『狼と羊皮紙』2巻 ネタバレあり)
先月、映画『沈黙‐サイレンス‐』(以下『沈黙』)を拝見した。
「信仰」とは。また、信仰を持つ者にとっての「神」とは。
私自身は信仰を持たず、映画の内容を現実的に捉えることは難しかったが、それ故に「信仰」という存在を強く叩きつけられた素晴らしい映画だった(原作も拝読したが、かなり昔のことであまり覚えていないので今回は映画準拠で話を進める)。
ただ、今回書くのは『沈黙』についてではなく、ライトノベル『新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙』(以下『羊皮紙』)についてである。
前作『狼と香辛料』では中世ヨーロッパ(風の世界観)での経済・商取引が主題だったが、その中で宗教(教会)の存在は非常に重要なものだった。
『羊皮紙』では聖職者を志す青年コルが主人公ということもあり、宗教が作品の主題となっている。
今回は先日発売された第2巻について主に書いていきたい。
修道士オータムにとっての「信仰」
公式サイトでの第2巻のあらすじは以下のようになっている。
港町アティフでの聖書騒動を乗り越えた青年コルと、賢狼の娘・ミューリ。恋心を告げて開き直ったミューリから、コルは猛烈に求愛される日々を送っていた。
そんな中、ハイランド王子から次なる任務についての相談が。今後の教会勢力との戦いでは、ウィンフィール王国と大陸との海峡制圧が重要になってくる。そのため、アティフの北にある群島に住む海賊たちを、仲間にすべきかどうか調べて欲しいというのだ。
海賊の海への冒険に胸を躍らせるミューリであったが、コルは不安の色を隠せない。なぜなら海賊たちには、異端信仰の嫌疑がかけられていたのだ。彼らが信じるのは、人々が危機に陥ると助けてくれるという“黒聖母”。不思議な伝説が残る島で、二人は無事任務を遂行することができるのか――。
これだけを見ると、海賊を相手取った冒険譚のような内容にも見えるし、劇中序盤でミューリもそれを期待している様子だったが、実際の内容は読者の予想とミューリの期待を大きく裏切るものだった。
本作の中で最も印象的だったシーンを尋ねたら、恐らく多くの人が「島の少女が奴隷商に売られるシーン」を挙げるだろう。
修道士オータムがその売買を指揮しており、そこにある罪、少女の父親の怒りなどを一身に受ける壮絶なシーンである。
「信仰がある故の自己犠牲」と言ってしまえばそれで片付くかも知れないが、そんなに簡単なものでもないだろう。
島全体を守るためとはいえ、修道士が人身売買など絶対に許されるものではない。
オータムは今回の件だけでなく、今まで幾度となく同じ事を繰り返し、その身に罪を背負い続けている。
少女の売買を終え、それを見ていたコルに向けてオータムが放った印象的な言葉がある。
「私は幸いである。神は、あらゆる罪をお許しになるのだから」
当然、言葉通りの「許してもらえるからラッキー」的な軽い意味ではない。
純粋な信仰がある故に、神の教えを信じて、自分が正しいと思うことを愚直なまでに貫けるのであろう。
もし、オータムに信仰がなく、ただ島を守りたいという正義感のみに突き動かされているのだとしたら、罪の意識や重圧に押しつぶされてしまってこれを続けることはできなかっただろう。
また、島の人々にとっては、幼い子供が奴隷に売られるなどということもなかっただろうが、そういった「間引き」をしないことには島はあっという間に滅びてしまっていたはずだ。
オータムを恨みに恨んで生き続けるか、すぐに終焉を迎えるか。
この選択自体もどちらが正しいかなどあるはずもない。
忘れてならないのは、この劇中で「信仰に従って自分の信念を貫き通した善人」という印象を持たせるように描かれたオータムだが、それが本当に正しかったかどうかは、それこそ「神のみぞ知る」ものだということである。
『沈黙ーサイレンスー』との関係性
さて、冒頭にて『沈黙』について少し触れたが、『羊皮紙』2巻と『沈黙』両方を読んだ/見た方であれば、少なからずその共通性を感じることだろう。
「信じる者は救われる」とは現代日本においてはもはや冗談めかして言われる言葉であるが、極端な話をしてしまえば『羊皮紙』も『沈黙』も、この言葉についてひたすらに掘り下げた作品といえるのではないだろうか。
どんなに苦しい目に遭っても信じるものがあるから乗り越えることができる。
しかし、そもそもその宗教に出会っていなければそこまで苦しい目に遭わなかったのではないか。
永遠に答えが出ることのない問いだが、それ故に読者/観客はその作品を読み終えた/見終えた後もずっと自分の中で考えることができる。
本を読んでの感想で「考えさせられた」というのは安直で非常によろしくないものだというのはわかっているが、この両作品で深く考えさせられたのは間違いないだろう。
また、これは単なる深読みに過ぎないのかもしれないが、『羊皮紙』2巻の劇中にも『沈黙』の影響を臭わせるシーンがある。
神はなにをしているのだ。どうしてそこから出てこないのだ。祭壇の上で堂々と広げられている、雪が放つ仄かな光りに照らされた教会の紋章旗を睨みつけても、沈黙しか返ってこない。
「沈黙」という単語が使われているに過ぎないという指摘もあるかもしれないが、この単語の意味するところが両作品とも共通している。
『沈黙』というタイトルは「切支丹たちがこれほどに苦しい思いをしているのに、なぜ神は沈黙したままなのだ」という意味合いで付けられている。
作品のテーマの共通性から見ても、この一節は『沈黙』に対するオマージュを示しているのではないかと踏んでいる。
全てはラストシーンへの布石
このように、今回の『羊皮紙』2巻は、前作『香辛料』を含めても恐らく最も重い内容となっていた。
しかし、前作からのファンであればわかっていると思うが、これらの重厚に作り込まれた本編は、全て最後にコルとミューリ(前作ではロレンスとホロ)がイチャイチャするための布石なのだ。
このように書くと、本編は不要でイチャイチャシーンだけ書いていればいいのではないかという勘違いも生まれそうだが、決してそういうことではない。
たとえ同じ内容のラストシーンでも、本編のシリアスさがなければ、その魅力は半減してしまうだろう。
本編の練りに練られた重々しさがあって初めて、あのラストシーンが輝くのである。
特に『羊皮紙』2巻については、作者の支倉凍砂氏もあとがきにて以下のように書かれている。
道中が重かった分、今回の最後のシーンは、結構お気に入りです。
作者自身もお気に入りのラスト。
その甘々っぷりを存分に楽しませていただいた。
華奢描写の大家・支倉凍砂
その甘ったるさを体中から発しているヒロイン・ミューリとその描写について詳しく書いていこう。
中世ヨーロッパ(風)の世界観とその文体は、ミューリの描写にも深く関わってくる。
たとえばこの文章。
(前略)ここでミューリという温かい湯たんぽのような少女のことを抱きしめ返したら、(後略)
現代を舞台にした作品では絶対に出ないであろう「湯たんぽのような少女」という言葉。
子供の体温の高さを情緒溢れる言葉で表現しており、ロリコン的にも非常にグッとくるものがある。
また、ミューリのその華奢さの表現も支倉氏は卓越している。
以下は霜焼け防止のためにコルがミューリの足に熊の油を塗るシーンである(まずこのシチュエーション自体が大変興奮する)。
皮膚の薄い華奢なミューリの足に油を擦り込みながら、言った。
ヒロインの足の裏の皮膚の薄さを描写したライトノベルがかつてあっただろうか。
「硬い・柔らかい」という表現は使用せずとも、ミューリの足の裏のふにふにした感触がこちらにまで伝わってくるようだ。
そして以下は、作品の世界観を発揮してミューリの華奢さを表現した"合わせ技"である。
ミューリの細い肩を掴むと、ぐいと引き離した。
ミューリの身体は華奢で、天使のように軽かった。
「天使のように」という表現は、現代が舞台の作品でも使えないことはないかもしれないが、神の教えに身を置くコルだからこそ説得力のある描写といえるだろう。
まとめ
真面目な話からいつもの性的な話まで、読者に様々な考察をもたらしてくれる『狼と羊皮紙』。
今後もその絶妙なバランスとヒロインの圧倒的な可愛らしさを期待していきたい。
(※5/22追記 本編『狼と香辛料』第19巻の感想・考察エントリも書いたのでそちらも是非。)
【おジャ魔女どれみドッカ~ン!第40話】また会うということ
ショックを受けた。
つくねはあまりにも。
(comicLO 2014年6月号表紙より引用、改変)
女児アニメを評した文章で「大人でも楽しめる」「とても子供向けアニメとは思えない」という書き方をされているのを見ると「この人本当に褒めてるのか…?」と思ってしまうアナルケツの穴の小さい私だが、このおジャ魔女どれみドッカ~ン!第40話「どれみと魔女をやめた魔女」(以下「40話」)を一言で表すのは困難を極める。
ひとまず「ショックを受けた」ことは間違いないので、冒頭ではLOのコピーを引用させていただいたが、上手く言い表せられないところをそれっぽい言葉を借りて逃げただけである。
我ながら少々情けない。
アバンに見る「40話」との理想の出会い方
そんな自分の文章の書き出しの反省はほどほどにして、本編の話をしよう。
まず、前話に付いていた次回予告の時点で明らかにいつもと違う雰囲気を醸し出していた。
「ちょっと切ない感じの話がくるのかな」程度には思ったものの、それ以上に身構えることはなかった。
そして本編、アバン*1でのどれみのモノローグがこちらである。
ふしぎな人に会いました。
あの人の言ったこと、あたしも、いつかわかるときが、くるのかなぁ。
「40話」の衝撃をまだわかっていない自分は初見では普通に聞き流してしまったが、2周目で改めて聞くと、自分の心への響き方が全く違う。
というのも、自分が「40話」を見終えて熱い風呂に入りながらしみじみと思い返してみたときに「子供の頃に見たかった…」という結論に至ったためである。
「40話」は(いつものドタバタコメディを楽しみにしている)子供達にとっては少しつまらない内容だったかもしれない。
「40話」を見て「いいはなしだな~。このお話だいすき!」って言ってる子供がいたらむしろ少し不気味なぐらいだ。
ただ、異質な話であることは間違いないので、良くも悪くも子供にとって印象に残る話ではあるだろう。
何となく「変な話だったな…」程度の感覚で大人になっていき、いつしかその記憶すらも忘れてしまう。
そして今回のような再放送で、懐かしさでおジャ魔女どれみドッカ~ン!を見始めて、この「40話」の衝撃を受ける。
そんな出会い方だったら最高だったろうとつくづく思う。
脚本の大和屋暁氏がそんなことを想定してこのセリフを書いたかは全く知らないが(むしろ違う可能性の方が高い気がするが)、私はついそんなことを考えてしまった。
「例の五叉路」のインパクト
「40話」で何度も登場する五叉路、これがとにかく変な形である。
妙な奥行きのある構図で、遠近感もおかしくなってしまいそうだ。
奥に伸びる2本の道が途中で曲がっていてその先が見えないのもまた不気味さを感じさせる。
パッと見では下校中の小学生が通る静かな住宅街といった感じでどちらかと言えば優しく穏やかな印象すら受けるが、見れば見るほど不安になる。
この「不気味さ」と「穏やかさ」の同居というのは、芦奈野ひとし先生の「コトノバドライブ」という漫画でも見ることができる(というか、それを主軸にした漫画と言える)。
「40話」の雰囲気が好きだった人にはたまらない作品だと思うので、是非ご一読あれ。
閑話休題。
はづきやあいこと別れたどれみが寄り道していろんな場所を歩いて行くシーン。
猫避けのペットボトルに始まり、金魚鉢、床屋の三色ポールの上のガラス玉、米屋の扉のガラス、と次々にガラス(っぽいもの)とそれに映り込むどれみが描かれていく。
「40話」がガラスをテーマにした話なので、ある意味露骨な演出とも言えなくもないが、挿入歌の優しさやガラスの処理の美しさも相まって、テンポ良く、嫌みなく表現されている。
そしてまた不安をかき立てるのが未来との出会いのシーン。
どれみが楽しそうに歩いていると、突然ガチャンと大きな音がする。
どれみの動きが止まり、挿入歌もピタッと止まり、静寂が画面を支配する。
ゆっくりゆっくりと振り返るどれみ。
不安だ。とにかく不安である。それまで穏やかで楽しそうに歩くどれみの姿を映していただけに、その落差に一層ドキドキさせられる。
不安を感じるシーンの多い「40話」の中でも、最も不安になるシーンではなかろうか。
アニメーション・映像処理もろもろ
アニメーションとして凄く気になったのがこのカット。
一瞬の動きで、ド派手なアクションというわけでもないが、吹き竿の回転が何故だかとても気持ちいい。
どれみが惚れ惚れするのもうなずける。
そしてこれは私が何度も繰り返しこのカットを見ているせいかもしれないが、吹き竿を回す音、左手で吹き竿を掴んだときの音も、不思議と心にスッと染み入ってくるようだ。
そしてさらにこのカット。
「ビー玉を太陽に透かす」というシンプルなようでその実非常に処理が難しいカットだと思われるが、ビー玉をズラしたときの明暗の付け方や光りのスジの動き方など、正にこれ以外にない処理と言えるだろう。
ハナちゃんの声やコミカルな効果音でギャグっぽくも見えるカットだが、その処理は渾身だ。
細田守氏は同ポ*2を多様することで有名だそうだが(Wikipediaで知った)、「40話」でも確かに同ポは多い。
その中でも印象的なのがこのカットだ。
(はづき、あいこと別れて、初めて右の道に進もうとするカット)
(ハナちゃんが行けないことになり、再び一人で未来の工房に向かうカット)
ビー玉が画面中央に大きく配置されそこに映り込みもあるので、前のカットと印象が大きく違うのは当然と言えば当然だが、同じ背景で同じカメラワークにも関わらず、後のカットではカメラが右に向かうほどどれみのワクワクした感情が高まってくるのがグイグイ伝わってくる。
ビー玉への映り込み方も非常に美しい。
鏡台の謎
「最も不安になるシーン」は先ほど挙げたが、次は「最も不安になるファクター」について。
未来が「宝箱」と呼ぶ鏡台だ。
どれみはこれを見て素直に「うわぁ、凄いなぁ」といった感じで感心しているが、私にはこの光景は少し不気味に見えた。
ジブリ作品の都市伝説などでよく見られる「本当は怖い××!!」みたいなのは私は大嫌いなので、このような言い方をするのはあまり気が進まないのだが、それでもこれは異様に思える。
そしてさらに気になるのが、どれみが喋っているのにも関わらず、口が全く動いていないという点。考えられる可能性は以下の3つ。
- 単純なミス。
- 動かしたかったが、鏡に映っている上にボカシも入っているので、何らかの理由で動かせなかった。
- 演出指示。
1はまずあり得ないだろう。ここまで露骨であればチェックで誰かが真っ先に気付くだろうし、東アニ作品でここまでのミスは見たことがない。
2もないだろう。16年前とは言え、この程度の条件で口パク一つ動かせないとはとても思えない。
わざわざ1.2を上げる必要があったかも怪しいが、これは演出意図と見て間違いないだろう。
ではどのような意図なのか。
この鏡台の中は、写真に収めることによって止まった時を表しているのではないか。
未来の言い方からすると、彼女は様々な国で一度会った人のところに決して再びは訪れていないだろう。
とすると、未来の中でも、出会った人々の中でも、出会ったそのとききりでお互いの時間が止まっていると言えるのではないか。
考えすぎかも知れない上に実に安直な考えで恐縮だが、ついついそんなことに思いを巡らせてしまう。
「あの人の言ったこと」
未来は、ヴェネツィアで過去に好きになった人に、未来のことを未来の娘だと思ってこっちに勉強しに来ないかと誘われていることをどれみに話す。
「魔女には、こんな生き方もあるのよ。わかる?」
「……わかんない」
アバンでの「あの人の言ったこと、あたしも、いつかわかるときが、くるのかなぁ。」というモノローグはこの言葉にかかっているのではなかろうか。
もちろん、この一言"だけ"ではなく、未来の様々な言葉がどれみの胸には残っているだろうが、一つ挙げるとすればこれだろう。
「またどこかで、会いましょう」
どれみが未来の工房に駆けつけるが、既に未来は発ってしまった後で「ごめんね。またどこかで、会いましょう」との書き置きがある。
何気ない別れの挨拶のようにも思えるが、普段であれば一度会った人には二度と会わないようにしている未来が「また会いましょう」というのは今までになかったことではないかと予想できる。
同じ魔女であり、不器用ながらもガラス細工に一生懸命などれみの姿に心打たれるものがあって、このような書き方をし、心の底から「また会いたい」と思っているのであろう。
その思いがこのたった一言の置き手紙にも詰まっていたのであろう、夕暮れの帰り道を歩くどれみは「また会いましょう、かぁ……」と噛みしめるように呟き、勢いよく走り出す。
ピアノの穏やかな旋律も重なり、最後の最後まで心を揺さぶられ続ける。
まとめ
1つ1つのカットに意味が込められており、無駄なカットが1つもない話数だった。
かといって過剰に情報が詰め込まれているわけでなく、不安を煽るシーンは多いはずなのに、どこか心落ち着けて見ることができた。
どれみの将来、魔女としての在り方など、ストーリー的にも非常に重要な話であることは間違いないであろうが、それよりも、この話数の雰囲気や心地よさを目一杯感じることが一番の醍醐味だろう。
原田知世氏の演技も大変素晴らしかった。
【薄花少女(三浦靖冬)】静けさ故のいかがわしさ
ロリ⊃ロリババア
私の中での「ロリババア」の認識は上記のようなものであるし、世間的にも大きなズレはないと思う。そもそも世間がロリババアに対する認識をきちんと考えたことがあるかは疑問であるが。
私はロリが好きで、その中に含まれるという意味合いでロリババアも好きである。
ババア要素は有って嫌なものではないし、無くて困るものでもない。
そう考えていた。この作品を読むまでは――
「薄花少女」という作品をロリババアという俗っぽい言葉で表現するのが正しいかどうかは非常に怪しいところだが、本作をご存じない方に分かりやすく説明するならば、その一言であろう。
2016年12月19日に第4集が発売された本作について、思ったところ等を述べていきたい。
ハッカがとにかく可愛い
これで伝えるべきはほとんどと言えなくもないが、それだとこのブログに書く意味もなくなってしまうし、まだまだ本作の魅力はたくさんあるので、もう少し書いてみよう。
本作の一番の特徴は、どこか懐かしさを感じさせるその作風だろう。
これは絵柄・舞台・キャラクター全てに共通して言えることだ。
(ロリとノスタルジーの関係については前回詳しく書いたのでそちらも参考にしていただきたい)
絵柄は、目が大きくてキラッキラの今どきのものとはほど遠い。
特にメインヒロインであるハッカは、やたらに首が細く、髪の毛の生え方などもお子様そのもので、その"子供感"がえも言われぬいかがわしさを醸し出している。
「アバラの浮いてないロリはロリに非ず」とは他ならぬ私の言だが、一見すると不健康に見えかねないほどの細さこそがロリに求められているものだろう。
また、主な舞台となる主人公の家もやや不思議である。
主人公の史(ふみ)は、塾講師を務める青年だ。恐らく二十代半ばの独身男性だが、古めかしい平屋に住んでいる。
時代設定がいくらか昔なのかとも思ったが、作中にタブレットが出てくるのでやはり現代ではあるようだ(そもそも多少昔でも若い独身男性が一戸建てには住まないだろう)。
リアリティを求めるのであれば一人暮らし向けのアパートに住むのが普通だが、ここで必要なのはリアリティではない。作中の設定に合わせるでなく「その方が雰囲気が出るから」平屋に住んでいるのだ。
私は常々、フィクションにはこれぐらい割り切っていてもらいたいと思っている。
「静」の描きㅤ方
さて、ここからは今回発売された第4集から1話取り上げて話を進めよう。
第十九話「はじまりの日に」。季節的にもぴったりなお正月のエピソードだ。
いわゆる「日常モノ」である本作において、特に異色なわけでもない「いつもどおり」の話数である。
第4集で特に増えてきたように思える「話数終盤でのハッカの少しドキッとさせられるような仕草」ももちろん素晴らしい話数だが、一番の見所は何と言ってもラスト2ページだろう。
「ふりますね。」
「うん。」
「しずかですね。」
「うん」
たったこれだけの会話、そしてセリフ無しで家の遠景だけを映す一コマ。
序盤で、いつもとは少し違う正月のやや慌ただしくもある朝の雰囲気を描写しておき、一転していつもより一層静かな夜を描くこの落差に、心をグッと引き寄せられた。
やはり「日常モノ」において大事なのは「静」の描き方だと実感できるエピソードであった。
終わりに
ロリババア人気が沸騰してきた(?)昨今、その「落ち着き」「柔らかさ」そしてそれ故の圧倒的な「いかがわしさ」で他の作品と一線を画している「薄花少女」。
幼い少女好き諸兄には是非とも読んでいただきたい作品である。
ロリとノスタルジーと芥川龍之介
今回はじっくりと「ロリ」について語りたいと思う。
「ロリ」そのものよりも、その周辺と言ったところだろうか。
COMIC LO
ロリを語るにおいて絶対に外せない存在が、ロリ作品専門成人向け雑誌「COMIC LO」である。
成人向け雑誌らしからぬ独特の雰囲気を持った表紙や、「Yesロリータ!Noタッチ!」のコピーなどでロリコン以外からも認知されることもしばしばあるLOは、世のロリコンたちの自意識に多大な影響を及ぼしていると思われる。
その中でもロリコンの脳に殊にすり込まれている思考の一つが、「ロリ」と「ノスタルジー」の結びつきであろう。
今でこそ私はこの結びつきを当然のように意識しているが、もしもLOの存在がなければ、想像力の貧しい私がこれをハッキリと自覚できていたかどうか怪しいところである。
焦点をLOの表紙に向けてみる。
LOの表紙には少しエロい回もあれば全くエロくない回もあるが、どちらの場合も大なり小なりのノスタルジーや儚さ、そして若干の不安を感じるデザイン(イラストとコピー)になっている。
ロリコン達はこれを毎月目にすることで、自然と「ロリはノスタルジックで儚いもの」という印象が植え付けられるだろう。
この思考が染みついてくると、世の多くのロリ作品にノスタルジーや儚さを見いだすようになってくる。
芥川龍之介「あばばばば」
私がLOの表紙に最も近い感覚を覚えたのは、芥川龍之介が大正12年に発表した小説「あばばばば」である。
現在は青空文庫で公開されており、短編ですぐ読めるので、未読の方は是非とも読んでいただきたい。
雑貨屋の店番をしているヒロインはロリではない(主人公曰く「やつと十九位」)のだが、主人公にミスを指摘されて顔を赤らめるなど、非常に初々しい少女である。
しかし、物語の最後では、ヒロインは一児の母となっており、「あばばばばばば、ばあ!」と子供をあやす姿を主人公が目撃してしまう。
主人公と目が合っても、ヒロインは恥じらいもせずに子供をあやし続ける。
ついこの間まですぐに顔を赤らめていた少女が、いつの間にか「度胸の
この作品を読み終えたとき、真っ先に「あ、LOの表紙っぽい」という感想が浮かんだ。
芥川龍之介の作品に何を言っているんだと思われるかもしれないが、LO読者ならきっと理解していただけるはずだと信じている。
少女とは儚い故に美しいのである。
電脳コイル
ロリの話に戻ろう。
「ロリ」と「ノスタルジー」が切り離せないのは、ロリ作品の性質上、小学校を舞台にした作品が多くなるのは当然で、それが自分の記憶と重なるためというのが大きいだろう。
例えば「電脳コイル」だ。
基本的にはシリアスなSF作品である本作だが、特に序盤は小学生同士がわちゃわちゃと戯れているような描写が多い。
当人達は本気なのだろうが、客観的に見れば「未来的ガジェットを使った子供のケンカ」である。
小学校の校舎内での男子対女子の抗争のシーンなどは、電脳メガネさえ除けば、誰もが子供の頃に目にし、体験したワンシーンなのだ。
全体的にやや暗めな画面の色合いや、駄菓子屋や神社といったある意味わかりやすい要素は、ノスタルジーを強く想起させる。
これはロリコンの戯言と思っていただいて全く問題ないのだが、ノスタルジーが存在するとそれと常に一対になってエロも見いだせないだろうか。
……引くどころか「何を言っているのか全くわからない」とお考えになるのも大変よくわかるが、私はそうなのだ。
恐らく、自分の脳内で「ロリ」と「ノスタルジー」が完全に結びついてしまっているために、ノスタルジーを見ると「うわっ!エロい!」と"脳がうっかり"(ラジオ深夜の馬鹿力「空脳アワー」より)してしまっているのだと思う。
電脳コイルは健全な作品です。
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とりあえず今回は「ロリ」「ノスタルジー」「あばばばば」「電脳コイル」の話をまとめてできればよかったのでこんな感じで〆。
「チロリン堂の夏休み」「陽差しの中のリアル」「今日の5の2」あたりの話もしたかったが、まあ今回のエントリに興味を持った方であれば楽しめる作品だとは思うのでよろしければ是非。
【夜行(森見登美彦)】読後数分間に生まれた醍醐味
(※読んだ人向け)
世に出てから間もない作品を当ブログで扱うことは少ない。
最近考察を書き続けていた「ローリング☆ガールズ」は約1年半前の放送と比較的新しい作品だが、「ヨコハマ買い出し紀行」やら「かみちゅ!」やら「どらえもん のび太と鉄人兵団」やら、10年以上前のアニメ作品を今更のように取り上げることもしばしばである。
公開から(当ブログ内で)最速で取り上げたのは「シン・ゴジラ」だった。
期待半分、不安半分で映画館に行ったが、見終えた後には何が不安だったのかすら忘れてしまうような傑作であった。
そして今回は2016年10月25日に刊行されたばかりの森見登美彦氏の新作「夜行」(以下「本作」)について思ったところ等を書いていきたい。
Google検索で「夜行 考察」などでこのページに辿り着いてしまった方には大変申し訳ないが、以下に記すのは考察でも解説でもなく「思ったこと」「感想」なので、その点はあらかじめご了承いただきたい。
というのも、今回このエントリを書こうと思い立ったのは、本作を読み終えたとき、奇妙でモヤモヤとした感じが頭の中に渦巻いており、それを文字に起こすことで自分の頭の中を整理しようと考えたためである。
私はもともと森見氏の作品が好きで、「太陽の塔」「きつねのはなし」「夜は短し恋せよ乙女」「有頂天家族」「有頂天家族 二代目の帰朝」「聖なる怠け者の冒険」は拝読しており、「四畳半神話大系」はアニメ版のみ拝見している。
森見氏の作品には「夜は短し~」や「聖なる~」など、ドンチャン騒ぎのエンタメ小説もあれば、「きつねのはなし」のような、それこそ狐につままれたような感覚に陥る怪奇小説もある。
文体や作品のテイストは作品ごとに大きく違うが、その根底にあるてろてろとした森見氏独特の味は共通している。
それは本作も例外でなく、タイトルから推測できる通りジャンルとしては怪奇小説に寄っているが、やはり読んでいるときの「森見作品を読んでる感」は健在であった。
本作は、数名の語り手が連作絵画『夜行』にまつわるそれぞれのエピソードを語る形式になっているが、全ての話は決定的な解決を迎えずに「不思議なまま」で終わってしまう。
これは「きつねのはなし」のときも同様だったのだが、「きつねのはなし」では各短編の間での総括などもなく(ちょっとずつリンクしている部分はあった)、投げっぱなしとまではいかずとも、読者側がいろいろと考えてそれぞれの解釈に辿り着く必要があった。
また、その辿り着いた答えも果たして森見氏の意図したものに沿っているかどうか、全く自信は持てなかった。
その点、本作は違う。
各話の謎に対する答えが明らかにされているわけでもないし、暗に臭わせてすらいない。
それ故に、自分の中でも明確な答えは出ていないのだが、読後に受けるべき印象というのが非常に明確に感じられる作品なのである。
「受けるべき印象」というのもおかしな日本語で恐縮なのだが、本作の読後感を最も的確に表すことができている表現であると思う。
第一夜から第四夜、そして最終夜と、全5話編成の本作であるが、最終夜「鞍馬」でそれまでの不思議な出来事の原因が連作絵画『夜行』にあることが明かされていく。
それまでの話は基本的に不気味さを軸に進んできたが、「鞍馬」の話の軸は一転して穏やかさや暖かさにシフトしている。
先ほどまで怪奇小説を読んでいたはずなのに、いざその元凶に焦点を当ててみると"いい話"が始まるという非常に不思議な構成なのである。
そしてその"いい話"の感じのまま、物語は終わりを迎える。
読み終えたその一瞬だけはとても晴れやかな気分になるが、少しずつ思い出してみると、後から後からモヤモヤしたものがにじみ出してくる。
各話の出来事の問題は何も解決していないのだ。
「鞍馬」を読んでいる最中も、それまでの不気味な話の内容を忘れているわけでは決してない。
むしろそれまでの不気味さがあるからこそ「鞍馬」の"いい話"っぷりがより盛り上がっているのは間違いないだろう。
読後、自分の中での本作の印象が"いい話"から"不気味"に引き戻されていくときは何かに騙されているような感覚すらある。
しかし、私はこの感覚こそが本作の一番の醍醐味だと思っている。
読書をするとき、その作品を読む前後や、1回目の読後と2回目の読後で作品の印象が変わることは多々あるが、読後の数分間でこれほど印象が変化する作品が他にあるだろうか。
本作は、作中ではなく読後の自分の心の中に最も楽しい瞬間が待っているという、なんとも不思議な作品であった。
【ローリング☆ガールズ第9話その2】Stand by me.(そばにいてくれ)
9話Aパートからだいぶ間が空いてしまいましたが、Bパート感想・考察です。
舞台は真茶未と執行さんの入院している所沢総合病院へ。
執行さんは石をなくしており、お礼参りを恐れて仮病で入院を続けています。
やはり執行さん自身もあの石がモサの力の源と信じており、真茶未も音無もそのことは疑っていません。
大統領が石を集めていることを真茶未は知っているようですが、あくまで「集めている"みたい"」と推察の域を出ていないようです。
そして千綾の子供の頃の回想。
母ハルカは多忙のためなかなか千綾に構ってやることができず、千綾は孤独を感じます。
そのときにもっていた本「スタンド・バイ・ユー」。
これは有名な上に結構そのまんまなので分かりやすいとは思いますが、映画「スタンド・バイ・ミー」が元ネタですね。
ジャケットもオマージュしているようです。
ローリング☆ガールズと「スタンド・バイ・ミー」の関係について、単にこのシーンだけでオマージュとして使われただけでなく、「4人の仲間たちの一夏の旅」という作品の根幹としてオマージュを捧げているのだと思います。
僕が言うまでもないことかもしれませんが、「スタンド・バイ・ミー」は本当にいい映画です。
以前「イージーライダー」も散々オススメしましたが、やはりこれだけはっきりとオマージュを捧げられているからには、ローリング☆ガールズ好きの方には是非見ていただきたい作品です。
というかローリング☆ガールズ関係なしに、心にじんわりと染みてくる素晴らしい映画なので、見て損はないと思います。
ちなみに僕は鹿のシーンが好きです。
www.youtube.com主題歌を聴くだけでも泣きそうになります。
そしてついに明かされる千綾が宇宙人であるという事実。
このときって望未と結季奈も聞いているんでしょうか。
その前のカットでの位置関係的には普通に会話の内容も聞こえていそうですが。
しかしこの事実は年頃の女の子にはあまりにハード過ぎませんか。
ハルカはそのあたりのことはどう考えているのでしょうか。
家の中にほぼほぼ閉じ込めて他人と会わせないようにしていたら、本人には宇宙人であることを隠す必要もないような…。
物語終盤でそのあたりが解決したかどうかは覚えていないので、終盤話数を待ちます。
執行さんの石を取り戻すために所沢大統領府に忍び込み、同時に忍び込んだ石作ストーンズの大伴と鉢合わせする音無。
自分は大統領の娘だとハッタリをかますも、好都合だとあっさり拉致されます。
音無みたいなタイプの女の子が乱暴な扱いされるのってなんか興奮しますね。
一方、石作ストーンズの地下ドック(工廠[こうしょう])に潜入した籾山は、そこで巨大な潜水艦(のような形をした何か)が建造されているのを発見します。
広島で工廠といえば、戦艦大和の建造で有名な「呉海軍工廠(現:ジャパン マリンユナイテッド呉工場)」がモデルになっているのは間違いないでしょう。
僕も初見のときは気付いてなかったのですが、この作品に登場するモノで元ネタがないと思うのが間違いでしたね。
そしてラストでは望未たち4人がバラバラになったところを映して第9話終了。
結季奈はしょっちゅうはぐれていましたが、4人全員がバラバラになるのは今回が初めてではなかったでしょうか。
望未が月を見上げる様も含めて、非常に不安を煽りつつも「Stand by me(そばにいてくれ)」という言葉が染みる引きになっていました。
さて、ついに幕を開けた最終章岡山・広島編ですが、僕は正直この章の内容をかなり忘れてしまっています(名古屋編と京都編の印象が強すぎて…)。
ガッツリとSF展開になったいったことだけは覚えてるんですが、じっくりと考察しながら視聴すれば新たに見えてくるモノもあるのでしょうか…。
残り3話に期待しつつ見守ることにしましょう。