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Do you see the GIRL

元・アニメ制作進行の自分が、アニメを見ての感想だったり、映画を見ての考察だったり、エロゲをやって勃ったことだったりを書いていくブログです。

【キラキラ☆プリキュアアラモード第17話】「大好き」がマストアイテム!

突然な上に中途半端な開始ではあるが、今回から「どこよりも早いプリキュア感想・考察」と題して、プリキュア放送後なるべく早くエントリをアップするという企画を実施していきたい。

企画第1回の今回は、キラキラ☆プリキュアアラモード第17話「最後の実験!変身できないキュアホイップ!」。

 

序盤

スーパーでリオを見かけたいちかは、リオに自然に話しかけて大袈裟な身振り手振りを交えて買い物の相談をする。

更にはリオの手を引いて一緒に買い物を回る。

これは童貞のリオくんには少し刺激が強すぎるのではないだろうか。

表情にこそ出していないが、内心ドッキドキのちんちんガッチガチだろう。

 

そんなリオの童貞心どうていごころなどつゆ知らず、今回のいちかはいつも以上にジェスチャーが大袈裟なように見える。

母のためのクッキーを作るということで特に気合いが入っているのだろうか。

いちかのこういった動きは見ていて本当に楽しい。まさに女児アニメの主人公のあるべき姿といっても過言ではないだろう。

 

一方、いちかを除く4人が集まったキラパティではゆかりさんがリオの秘密を打ち明けようとする。

このときのあきらさんの目線が非常に鋭いのだが、彼女はもしや既に気付いていたのだろうか。

もしくは確信は持てなくとも、少なくとも若干の疑念は抱いていたのかもしれない。

 

中盤

いちかの家にやってきたいちかとリオ。

美少女の家に二人きりとはけしからん。

いちかはごく自然な流れで「(マドレーヌを)一緒に食べる?」とリオに問いかけているのだが、こんなことされたら間違いなく惚れる。完全に惚れる。

スーパーのシーンとは違いリオも明らかに動揺しているが、これはやむを得ないだろう。好きなだけ青春しなさい。

 

ここで一瞬リオの回想が入るのだが、この姿は若かりしいちかの母がプリキュアになっている姿のようにも見える。いちかは二代目の(もしくは代々続いている)プリキュアということだろうか。

こんな予想を書いて全然違ったら恥ずかしくて敵わないが。

 

リオは、いちかの母を「娘のことを考えてない自分勝手な人間」と糾弾する。

それに一瞬悩むいちかだが、それでも「母にしかできないこと」「格好良い」と母への絶大な信頼を表す。

さらにいちかは、このマドレーヌが美味しいのは母の愛情が詰まっているからと言う。これは単純でベタにして、『キラキラ☆プリキュアアラモード』の根底にある考え方ではないだろうか。

そんないちかをリオは「おかしい」と言ってのけるが、その表情と声は本当にいちかを心配しているようにも見える。やっぱベタ惚れやん…。

 

終盤

いちかのキラキラルを奪い、リオは4人の前でその本性を現す。

屋根の上に立っての登場は悪役感が半端ではない。

序盤の妖精たちとは格の違う「悪」であることが強調されているシーンだ。


そこでのリオのセリフに「いいねえ、その顔。ゆかりさんを出し抜けるなんて」というものがあり、リオもゆかりさんを他の4人とは別格として扱っていることがわかる。

確かに前回のゆかりさんの圧倒的な強さを見せつけられればそう思ってしまうのも致し方ないだろう。

歴代で「別格プリキュア」といえば、ゆりさんことキュアムーンライトが真っ先に思い浮かぶが、ムーンライトは追加戦士という立場やその生い立ちもあってジョーカー的な位置づけもあった。

しかし、スタートメンバーでここまで露骨に別格扱いなプリキュアは史上初ではないだろうか。

 

この17話でたびたび登場する「大好き」というフレーズ。

キラキラルを奪われたいちかは「大好き」が何かすらわからなくなっている。

キラキラ☆プリキュアアラモード』において「大好き」といえば、OPの「"大好き"が いちばんのマストアイテム」が印象的だ。

このように「主題歌の歌詞を作中に取り入れる」*1という手法は個人的に非常に好きなので、今後も多用しすぎない程度にどんどん使っていっていただきたい。


戦闘において、ジュリオは各プリキュアの技を自分の技として使用している。

この展開をどこかで見たことがあるような気がしていたが、『ウルトラマンA』の超獣「エースキラー」だ。

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…だからどうというわけではない。

4人がジュリオの攻撃に苦戦している一方、いちかはクッキーを作ることで母親とのスイーツの記憶を思い出し、その目に光りを取り戻す。

「スイーツは大切な人との思い出になり得るもの」という、恐らく本作が最も伝えたいメッセージが顕著に出ている非常に重要なシーンだろう。

そして挿入歌も入って熱い熱い登場。

復活のWホイップである。

 

変身前後で本名とプリキュア名でかなりカッチリと呼び分けをしているプリキュアシリーズだが、カスタードが「いちかちゃん…?」と呼んだのにはどんな意図があるのだろうか。

単純に、直後のショコラの「キュアホイップ…!」というセリフと対比させて「復活」を強調させたかっただけかもしれない。

 

キュアホイップの復活にジュリオは困惑を隠せない。

それもそうだろう。「"大好き"が いちばんのマストアイテム」という中で「大好き」が無限に湧き出てくるいちかは作中最強なのではないだろうか。

そしてついに必殺技の直撃を食らったジュリオは潔く敗北を認める。

しかしなお歩み寄ろうとするキュアホイップに怒りを露わにし、「僕はお前が大嫌いだ!」と突き離して去って行く。

完全にホイップにベタ惚れの少年やんけ。あまずっぺー…*2

*1:元々作品のキーワードとして「大好き」があったという可能性もある

*2:あまずっぺー…フレッシュプリキュア!のウエスターのセリフ

【狼と香辛料 第1巻(支倉凍砂)】狼と行商人の出会い、そして旅の始まり

先日、『狼と香辛料』第19巻の感想・考察エントリを書いた。

tkntkn0703.hatenablog.comシリーズ全てを振り返る意味を与えてくれる傑作であった。

19巻を読んでシリーズを最初から読み返したくなった方も多いであろう。

私もその一人である。

 

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というわけで今回は、19巻を読み終えた今『狼と香辛料』第1巻(以下「本作」)を再び読んでの感想・考察を書いていきたい。

 

読者を一気にその世界観に引き込む「序幕」

どんな小説においても、冒頭というのは非常に重要な意味を持つ。

それは「吾輩は猫である*1」や「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。*2」など1つのセンテンスの場合もあれば、1~数ページ程度のワンシーンを指す場合もある。

 

余談であるが、『吾輩は猫である』を『猫』と略して呼ぶのが何となく格好良いものに感じてしまうのは私だけではないと思うのだが、いかがだろう。

『カノン*3』のように一般名詞を固有名詞として使用することに妙な憧れを覚えるのだ。

それに感化されて普段は『狼と香辛料』を『狼』と呼んで悦に入っている。

ただ『狼と羊皮紙』が刊行されたり、サブタイトルにも『狼と~』というものが多かったりで紛らわしいのでブログ等では使いづらいが…。

 

閑話休題

 

本作では1ページ少々の「序幕」がその「冒頭部分」を成しているのだが、このたった20行の文章が『狼と香辛料』の世界観を完璧に表している。

もちろん、本作の主題である経済・商取引の話は全く出てこないので「ストーリー」が見える訳ではないが、一面に広がる金色の麦畑や、そこで儚げにたたずむホロの姿などは、シリーズを通じて常に読者の頭に浮かんでいるだろう。

それは挿絵やアニメの記憶かもしれないが、心の深い部分ではこの短い文章によって想起されているように思う。

 

ところで、ある程度の『狼と香辛料』ファンが本作の「序幕」を再読したら感じると思うのだが、この「序幕」はビジュアルブック『狼と金の麦穂』と雰囲気が非常に似ている。

「ビジュアルブック」とは洒落た言い方だが、要するに絵本だ。

『麦穂』も今回改めて読んでみたのだが、これもまた実に素晴らしい作品である。

もともと絵本という形式にすれば映えるのは間違いない作風であるが、短めの一文をぽつぽつと紡いでいく文体は、穏やかで温かい印象と共に、たわけとの旅を遠くに思う賢狼の一抹の寂しさもにじみ、淡い金色の空間を作り出している。

「ホロ」や「ロレンス」などといった人名、あるいは村の名前など、固有名詞を一切出さず、どの時系列のどの場所での出来事かをぼかしているのも、この独特の雰囲気を作り出す一つの演出だろう。

 

ロードムービー的作品特有の感傷

さて、そろそろ本編の話をしよう。

 

パスロエ村――

 

古くからの『狼と香辛料』ファンであれば、この「パスロエ村」という名前を聞いただけで懐かしさに目頭が熱くなることだろう。

そう、二人の長い旅路の始まりとなるのが、広大な麦畑の広がるこの村である。

二人がまだ出会う前、孤独な行商人ロレンスの姿がそこにあった。

 

そんなロレンスの様子を見たり、村の名前に懐かしさを感じたりというのが、どこか既視感を覚えた。

それは、やりこんだRPGを気まぐれに始めからプレイしたときの感覚だ。

主人公がヒロインに出会う前の、穏やかで何も変わらない村での暮らしを続けている様子を見るような、そんな感覚だ。

(上記には微妙に合わないが「マサラタウン」といえば我々20代後半にはわかりやすいかもしれない)

これは『狼と香辛料』がロードムービー的な作品であるが故に感じたものだろう。

結末を一度見ている旅の始まりを再び見るのは、懐かしさと、その後の波瀾万丈の旅路を思い、なんとも言えず感慨深くなるものだ。

 

日の浅さ故の絶妙な距離感

狼と香辛料』の大きな魅力と言えば、ロレンスとホロのバカップルぶり……もとい、掛け合いの妙だが、序盤は若干違った様相を呈している。

ホロの賢狼っぷりに慣れていないロレンスがひたすらにからかわれる場面が続くのだ。

 

19巻現在ではロレンスも幾ばくか年を重ね(ホロと体も重ね、ってやかましいわ)、多少からかわれることはありつつも、互いに絶大な信頼関係をもってじゃれ合っている。

それはそれで砂糖菓子のような甘さが大変心地よいのだが「美少女(しかもケモ耳)にからかわれる」というシチュエーションに勝るものは無いだろう。

ロレンスも下手に頭がいいものだから何とかホロをやりこめようとするが、そこは賢狼様のこと。年季の違いを見せつけてくれる。

 

支倉凍砂は2人いる説

狼と香辛料』を読んでいて思うのが、支倉凍砂氏は2人いるのではないかということだ。

 

深い知識に裏付けされた経済・商取引に関するストーリーの構成。

そしてサッカリンの如く甘ったるいロレンスとホロの掛け合い。

この2つの柱を1人の人物の手によって作り上げることなど果たして可能なのだろうか。

「経済パート」担当の支倉氏と「イチャコラパート」担当の凍砂氏。

支倉凍砂」という小説家は、実はこの2名によるユニットではないかという仮説を立ててみたのだが、如何だろうか。

 

 

……と思いたくなるぐらいに、どちらの柱も人を圧倒する力を持っていると言いたいのだ。

 

気まぐれで1巻を読み返してみたが、一度読み終えた今ならではの魅力が多くある作品だと実感した。

シリーズをお手元にお持ちの諸兄は、このタイミングで手に取ってみてはいかがだろうか。

*1:吾輩は~…夏目漱石吾輩は猫である

*2:国境の~…川端康成『雪国』

*3:カノン…『パッヘルベルのカノン』を思い浮かべる方が多いだろうが、そもそも「カノン」は輪唱(「かえるのうた」等)を表す一般名詞である。更に厳密に言えば違うけど割愛

【狼と香辛料 第19巻】10年間そのものを象徴する傑作中編

2017年5月10日、ライトノベル狼と香辛料』第19巻(以下「本作」)が発売された。

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今回は本作についての感想・考察を述べていきたい。

尚、今回は『狼と香辛料』への溢れんばかりの愛ゆえに、かなり恥ずかしいことも書いてあるが、今回限りのこと、彼らの惚気っぷりに当てられていると思ってご勘弁願いたい。

 

巻頭イラストの存在感

ライトノベルというものは巻頭に本文の一部抜粋とカラーイラストが掲載されていることが多いのだが、『狼と香辛料』もその形態を持つ作品の一つである。

本作を読み始めて30秒、この巻頭のカラーページを見終えただけで、なんとも言いようのない満足感と心地よさが胸を満たした。

 

文倉十氏の美麗なホロのイラストがそうさせたのか。

支倉凍砂氏の甘々でありつつも知性を感じさせる文章がそうさせたのか。

 

もちろんそのどちらもあるだろうが、それに加えて大きいのは、10年という時と、その間読者を飽きさせることのなかった素晴らしい本編の内容によって培われた信頼と安心感だろう。

16巻までの本編は「波瀾万丈+甘々」、17巻以降の番外編・後日譚はひたすらに甘々な物語を届けてくれた『狼と香辛料』だが、19巻は表紙からして甘ったるい香りが滲み出ているようだ。

そして件のイラストは、ラベンダー畑に寝ころぶホロ、羊飼いの杖を持ち笑顔を見せるホロ、ロレンスの背中に体を寄せるホロ、の3枚。

どれも素晴らしいイラストだが、特に1枚目のラベンダー畑のイラストが白眉だ。

寝ころんでいる故に少し乱れた亜麻色の髪、その髪の流れに続くように生えている同じく亜麻色の尻尾、ラベンダーの紫のアクセント。

そしてホロの優しく慈しむような表情と、その下に伸びる喉元と鎖骨のラインが大変美しい。

まさに完璧な一枚絵と言えるのではないだろうか。

是非とも大きなサイズで見てみたいのだが、『狼と香辛料』の画集は17巻の完結時に既に出てしまっているのが実に惜しい。

『羊皮紙』と合わせて素材が溜まったところで画集第2弾の発売を強く希望する。

 

狼と香辛料の記憶』

さて、巻頭イラストの話だけで文字数がやや増えてしまったが、そろそろ本編の話に移ろう。

本作は3つの短編と1つの中編で構成されている。

その中でも最後に掲載されていた中編『狼と香辛料の記憶』(以下『記憶』)に焦点を当てて話を進めていこう。

 

『記憶』の主題

『記憶』は、シリーズで何度も書かれてきた「不老長寿であるホロと、普通の人間であるロレンスが共に歩んでいくことへの不安・葛藤」という点を主題に、ホロ視点で物語が進行していく。

コルとミューリがいなくなった湯屋で幸せだが変わり映えのない日常を送っているホロが、遠い未来ではこの幸せな時間のことも何一つ思い出せなくなってしまうのではないか、という不安に駆られる。

狼と香辛料』に限らず今まで多くの作品で語られてきた「不老長寿キャラの不安」だが、「自分だけが取り残される不安」は書かれても、「愛する人との記憶が薄れてしまう不安」というのはなかなか書かれてこなかったのではないだろうか。

特に『記憶』ではホロ視点のためにその不安が痛いほどに伝わってくる。

当然私は不老長寿ではないので共感できるはずなどないのだが、何故だか納得させられるというか、不老長寿の狼はこういった不安を持つのかと素直に受け入れることができる。

「幸せに身を任せておったら、大事な日々がすべて記憶の中で溶けてしまう……。賢狼といえど、なにもかもを覚えておくことはできぬ。わっちゃあ、それが怖くなってきたんじゃ」

変わらぬ穏やかな日常が続くことが幸せなのは、人間がせいぜい100年かそこらという短い命だからであろう。

また、ホロのこの不安も、数百年生きてきて味わったことのない幸せの中に身を置いているからこそ生まれたものなのだろう。

 

狼と香辛料』という物語

最終的に「毎日の生活を本に書き留めておく」という方法で彼らは二人の思い出を残すことにする。

この方法自体は、今までのシリーズで登場した事件の解決策に比べれば特別に機転の利いた奇抜なものというわけではない。

しかし今回は、本シリーズそのものの存在の意義を示してくれるという、陳腐と言えば陳腐だが、この上なく鮮やかなオチであった。

「本とやらには題名がありんす。ぬしの名前でもつけるかや?」

「ここの湯屋の名前はなんだった?」

「ふむ?ふむ。確かに、それが一番じゃな」

私たち読者が10年間読み続けてきた「一人のたわけと一匹の賢狼の物語」は、彼ら自らの手で記したものだった――

支倉凍砂氏がどこまで想定してこのタイトルで書き始めたのかは本人のみぞ知るところであるが、仮に後付けであろうが何だろうが、この展開は読者にとって幸せ以外のなにものでもない。

 誰が見ても苦笑して、やれやれと肩をすくめるものになるはずだった。

見事になってるよ!!

それが読者こっちからすれば最高なんだよ!!

 

……とまあ、柄にもなく「!」を使うぐらい熱くなってしまうほど私は『狼と香辛料』が大好きであるし、『記憶』の出来は素晴らしかった。

狼と香辛料』が積み重ねてきた10年がここに全て集約されていると言っても過言ではないだろう。

 

Merchant meats・・・・・ spicy wolf.

これはシリーズを通して各巻の表紙に書かれているサブタイトル(?)的な一文である(「meets出会う」ではなく「meats」になっているのは単なる誤字だろう)。

この一文の通り『狼と香辛料』は典型的な「ボーイ・ミーツ・ガール*1」で物語が幕を開ける。

狼と香辛料』読み始めの頃は何の気なしに読んでいたシーンであるが、19巻を読み終えた今、心から感じることがある。

 

ホロとロレンスが出会ってくれて本当に良かった。

 

ホロが偶然ロレンスの荷馬車に潜り込んだおかげで二人の物語は生まれ、今、19冊(+2冊)の本になっている。

もし二人が出会っていなかったら『狼と香辛料』という物語は誕生しなかったのだ……などと真面目に考えてしまっているのだ。

 

自分でも書いていてこっ恥ずかしい限りだが、これだけ一つの作品にのめり込めるというのは本当に幸せなことなのだろう。

続編『狼と羊皮紙』もまだまだ続いていくようなので、そちらも引き続き応援していきたい(『羊皮紙』については過去に書いたエントリもあるのでそちらも是非)。

 

まとめ

冒頭に書いたとおり、かなり恥ずかしい内容になってしまったが、今回はそれをよしとする。

自分の好きな作品と向き合うときは、恥じらいなど持っていては本当の良さはわからないのだ。

狼と香辛料』はそんなことを気付かせてくれる作品でもあったようだ。

 

 

(※5/24追記:思わず1巻から読み返してしまったのでその感想・考察エントリも作成した。)

tkntkn0703.hatenablog.com

*1:ボーイ・ミーツ・ガール…少年と少女が出会うことで何かが始まる物語の形の一つ。『狼と香辛料』ではオッサンと数百歳の出会いだが。

【伊豆の踊子(川端康成)】ロリコン文学としての『伊豆の踊子』鑑賞法

先日、伊豆半島を旅行してきた。原付で。

1泊2日、総走行距離611kmというなかなかフザケた旅行であった。

伊豆といえば『伊豆の踊子』ということで、劇中で主人公が宿泊した湯ヶ野温泉の「福田家」にも足を伸ばした。

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(この欄干の下が例の川)

訪れたのが平日の早朝だったというのもあるかもしれないが、静かで落ち着いた雰囲気が漂っており、非常にいい場所であった。

 

というわけで今回は『伊豆の踊子』についての感想・考察を書いていきたい。

…が、ノーベル賞作品である本作の考察など、既に世界中の真面目な評論家たちが語り尽くしているだろう。

私にできることがあるとすれば、本作をロリコン目線で語ることぐらいだろう(それすらも散々語られているかもしれないが)。

本作は孤児根性に歪んでしまった主人公の心が踊子との交流によって和らいでいく様が高く評価されているとのことだが、主人公の心を和らげるほどの踊子の純真さ・可愛らしさそのものが作品の一番の魅力だと私は思う。

その点についてなるべく詳しく分析していきたい。

 

シーン別に見る踊子の魅力

踊子との初めての交流

 突っ立っている私を見た踊子が直ぐに自分の座布団を外して、裏返しに傍へ置いた。「ええ……」とだけ言って、私はその上に腰を下ろした。(中略)

 踊子と間近に向い合ったので、私はあわてて袂から煙草を取り出した。踊子がまた連れの女の前の煙草盆を引き寄せて私に近くしてくれた。やっぱり私は黙っていた。

初対面でこんなによくしてくれる美少女(しかもこれ以前から気になっていて何とか上手く鉢合わせできないかと腐心していた)がいたら、それは言葉に詰まりもするだろう。

ここは主人公の童貞力の高さも気になるところではあるが、踊子のその純粋な善意が、さらりと、しかし克明に描写されているシーンだ。

しかもこれが冒頭1ページ目の出来事である。

踊子の魅力は早くも主人公と読者の心をガッチリと掴んでいることだろう。

主人公は「あまりにも予想通りに踊子たちと落ち合えたためにどぎまぎしてしまった」という旨を地の文で語っているが、この動揺は明らかに踊子の美少女ぶりに当てられたものである。

もしかすると主人公本人もまだ自覚していないだけなのかもしれない。

 

踊子との初めての会話

「冬でも泳げるんですか」と、私がもう一度言うと、踊子は赤くなって、非常に真面目な顔をしながら軽くうなずいた。

 恐らく踊子自信も、自分の言っていることがおかしいと途中で気付いているのだろう。

そこで「やっぱり違った」ということを上手く説明することもできず、ただただ赤面してうなずくことしかできないお子様っぷりがまた可愛らしい。

短い会話であるが、非常にちんちんにクるワンシーンだ。

 

真裸で湯殿から手を振る踊子

言わずと知れた本作随一の名シーンである。

その裸身を若桐に例えるなど、踊子自身の描写も大変美しい限りであるが、その少し前に周囲の情景を短くも情緒溢れる文章で表現しており、それのおかげで踊子が朝の川辺の風呂場から元気よく手を振る様子をはっきりと思い浮かべることができる。

 

さて、真裸の踊子が出てくるこのシーンであるが、これをエロいものであると捉えるか否かは議論が尽きないところだろう。

このシーンで勃起するかどうかでいえば、私は勃起はしない。

ただ、「勃起しない = エロでない」という結論づけも早計であろう。

踊子が手を振る姿を思い浮かべてロリコン的な意味でグッときたのは間違いない。

しかしその一方で「心に清水を感じ」るというのも、私は非常によくわかるのである。

男のよこしまな気持ちと清らかな感情を同時に沸き立たせる、純真無垢ゆえの魔性とも言えるのではないだろうか。

 

 何故か五目並べが妙に強い

五目並べが弱い方が可愛らしいのでは?」と思う方もいるだろう。

確かに弱いのは弱いので可愛いのかもしれない。

しかし諸君、よく考えてほしい。

通常の囲碁であればともかく、五目並べが強い・・・・・・・というのは不思議な子供っぽさが滲み出ていて無性にドキドキしてこないだろうか。

五目並べが弱い」はただの萌え要素、「囲碁が強い」はただのギャップ。

五目並べが強い」というのが他にはない踊子だけの魅力なのである。

 

そして段々と我を忘れて碁盤に覆いかぶさって来る姿、これは単純に可愛い。

 

主人公がロリコンか否か

恐らく識者の間でも意見の分かれるテーマであろう。

主人公は20歳*1で、踊子は14歳。

出会ったばかりのころは踊子のその風貌から17,8歳ぐらいだと思っていたという。

そもそも私は大正時代の小児性愛に対する感覚の違いなどについて明るくないので迂闊なことは言えないが、主人公が踊子に恋愛感情(に近いもの)を抱いていたことは間違いないだろう。

主人公の言動からして「親子のような」やら「兄妹のような」やらといった感情を当てはめてしまうのは逆に無粋というものだ。

 

ただ、ロリコンを最も試される「踊子が真裸で手を振るシーン」に関して言えばどうだろう。

「朗らかな喜びでことことと笑い続け」ている様子は、とてもロリコンのそれとは思えない。

序盤は17,8歳だと思っていてどぎまぎし、風呂の場面で子供だと気づいてことこと笑い、それ以後は子供に対する接し方になる……という展開であればスムーズで納得がいくが、この後の五目並べの場面などではまた踊子を異性として意識している。

序盤にも少し書いたが、主人公が自分の感情をはっきりと整理できていない部分も大いにあるのだろう。

 

まとめ

終盤の大事な展開などを全てすっ飛ばして書いた今回のロリコン的「伊豆の踊子論」はいかがだっただろうか。

今まで『伊豆の踊子』をそんな目で見たことがなかったという人も、これをきっかけにこちらの世界を垣間見ていただくことができれば私としては幸いである。

また、第1回の『レオン』に関するエントリも含め、「ロリコンが語る映画・文学シリーズ」として今後も続けていきたいと考えている。

 興味のあるロリコン諸兄は是非とも読んでいただきたい。

*1:全て数え年表記

【紙の動物園(ケン・リュウ)】人間のアイデンティティについて考える短編

今まで「現代SF」作品をほぼ読んでこなかった私がケン・リュウの短編集『紙の動物園』(文庫版)(早川書房)を手に取ったのは単純な理由である。

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『紙の動物園』(単行本)に収録されている短編『もののあはれ』が、私の好きな漫画『ヨコハマ買い出し紀行』に影響を受けて書かれた作品と知ったからだ。

が、文庫化にあたり単行本の15篇を2分冊しており、今回の第1弾には『もののあはれ』が収録されていないのを知ったのは、購入して帰宅し目次を読んだときだった。

少し残念ではあったが、それで読まない理由にはならないと思い、早速読んでみた。

本作はTVでピースの又吉直樹氏が推薦したことで人気に火が付いたとのことだが、表題作はさほど私の琴線に触れることはなかった。

今回は私の中で特に印象に残った2篇について書いていきたい。

 

心智五行

この短編集の中でもいかにもSFらしい『心智五行』。

話の導入としてはいわゆる「落ちものヒロイン*1」で、若い男女をメインキャラクターに置いており、どこか藤子不二雄SF短編的な匂いも感じさせる。

 

舞台は(明言されていないが)遠い未来。

宇宙船が故障し、見知らぬ惑星に不時着した主人公の女性タイラ。

そこは地球よりも科学レベルのかなり遅れた惑星で、そこに住む男性ファーツォンがタイラを介抱し、次第に二人は惹かれ合っていく…という一見ありきたりな展開ではあるが、話はそう単純ではない。

 

本作でキーとなる要素は「体内のバクテリア」だ。

バクテリア・細菌類を根絶させた文明で暮らしていたタイラだが、ファーツォンの惑星でバクテリアが体内に入り込み、彼女の思考・心情に大きな影響を与える。

筆者付記にてこのアイデアには元ネタがある旨が書かれていたが、以下の記事に恐らく同じことが書かれているので、ひとまずリンクを貼っておく。

www.nikkei.com

タイラはバクテリアが体内にいることで「より冒険好きになり、より衝動的になり、より幸せになる」ことを自覚するようになるが、その状態が果たして自分であるのか疑問を持つようになる。

ファーツォンに恋しているのは自分なのか?バクテリアなのか?

タイラはその答えを見つけられないが、自分の直観(=gut)に従い、ファーツォンの惑星に住むことを決断する。

「gut」は「直観」の他に「腸・内蔵」という意味があり、つまりタイラは腸内のバクテリアに従っているという地口オチ*2でこの話は締めくくられる。

 

このような「いろいろと理屈をこねくり回した挙げ句の地口オチ」というのは実は私は結構好きだったりする。

この話は地口オチ"のみ"ではなく、タイラのアイデンティティの揺らぎなど深く考えるべき箇所も少なくなかったが、最後にコレが来たら全部持って行かれるだろう(笑)

 

愛のアルゴリズム

こちらも人間のアイデンティティに焦点を当てた話である。

 

人工知能を持った人形の開発者の苦悩を描くという点では実に今風な作品とも思われそうだが「人工知能が自我を持って云々」というありきたりなものではなく、逆に「自分の思考は単なるアルゴリズムにすぎないのではないか」という葛藤を描いている。

このさわりだけを聞くと『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?*3』を思い出すSFファンも多いかも知れないが、『アンドロイド~』と違うのは「自分が人間であるか」という点ではなく「そもそも人間の思考がアルゴリズムではないか」という点に疑問を持っているところだ。

 

劇中では「中国語の部屋*4」を引き合いに出し、これと同じ事が人間の脳でも行われているのではないかとしている。

人間の脳もマニュアルに従って動いているだけで「思考」というものは幻想にすぎないのではないかと。

 

『心智五行』と同様、こちらも主人公が作品の主題となる疑問の答えに辿り着かないまま幕を閉じる。

答えは読者に任せる…というよりも、その悶々とした感じを楽しむのがケン・リュウ作品の良さなのだろう。

 

まとめ

上記の2篇、あるいはそれ以外の短編でも、1つの思考実験や実際の出来事を起点にして作者独自の解釈で話を膨らませるのがケン・リュウ氏の作風であるが、このテイストは『人類は衰退しました*5』を彷彿とさせる。

前提知識があるとニヤリとさせられるようなこの感じが、それを知らずとも何故か心地良く感じられる。

 

ひとまず冒頭に書いた短編集の分冊第2弾『もののあはれ』の発売を待つのみである。

*1:落ちものヒロイン…読んで字の如く、空から女の子が落ちてくることで物語が始まる、「ボーイ・ミーツ・ガール」の形の一つ。ラピュタとか、ナディアとか、まほプリとか

*2:地口オチ…言葉遊び、駄洒落をオチとすること

*3:アンドロイドは電気羊の夢を見るか?フィリップ・K・ディックSF小説。人間とほぼ見分けがつかないアンドロイドとそれを討伐する主人公との攻防を描き、そもそも人間とアンドロイドの違いとは…といった考えを提起する作品

*4:中国語の部屋…思考実験の一つ。詳細はググったらすぐ出るよ!

*5:人類は衰退しました田中ロミオライトノベル。人類が衰退し妖精が支配者となった地球で、人類と妖精の調停官を務める「私」の生活を、のんびりと、かつブラックに描いた作品。SFテイストも強い

【ラムネ2(ねこねこソフト)】「やかま」な後輩との「良い日常」の魅力

「日常系」というジャンルの人気が高まって久しい。

数年前の異様な熱狂ぶりこそ収まっているかもしれないが、それでもなおアニメ・漫画業界の主流ジャンルの一つであることは間違いない。

エロゲにおいても昔から人気のあるジャンルで、それ故に半端な作品ではその数に埋もれてしまうだろう。

 

今回は、2004年にねこねこソフトより発売されたエロゲ『ラムネ』の13年ぶりの続編『ラムネ2』について、主に「日常系」としての面に焦点を当てて綴っていきたい。

 

「焦点を当てて」などと書きはしたが、そんなことを考えずとも『ラムネ2』はとにかく「日常系」である。

主人公にもヒロインにも特殊な能力などは一切なく、作中では大きな事件なども起きない。

恐らく作品のコンセプトとして「日常を楽しむこと」を主目的に置いているのだろう。

「複雑で壮大なストーリーを書くのが面倒くさいから「日常系」でお茶を濁しているんじゃないか」という批判をする輩もいるかもしれないが、私はむしろ逆だと考える。

確かに「日常系」は万人受けしやすく、「そこそこのモノ」を作るにはうってつけのジャンルであろう。

しかし、大事件が起こらないという制約の中で本当に人の心に刺さるものを作るというのは至難の業だ。

『ラムネ2』は、日常描写の「雰囲気の良さ」で常に私の心を揺さぶり続けた。

この「雰囲気の良さ」というのは文章で伝えるのが非常に難しく(筆者の力量不足もあるが)、また「ストーリーの良さ」以上に人によって好みが分かれるだろう。

 

例えば映画『ショーシャンクの空に』の良さは、難解な箇所はほとんどなく映画の最初から最後まで完璧に組み上げられたシナリオであろう。

それに文句を付ける人は少ないだろうし、その「ストーリー」という大きな魅力が多くの人に愛される最大の理由だろう。

 

逆に『横道世之介』という映画は、ストーリーにあまり起伏のない、世之介の周りで起こるちょっとした出来事をのんびりとほどよいコミカルさで描く作品だ。

良い意味での「雰囲気映画」なのだが、それが琴線に触れない人にとっては『横道世之介』は凡作に成り下がるようで、かなり賛否は分かれているとのことだ。

 

話を『ラムネ2』に戻そう。

そんな「雰囲気の良さ」を推したい本作であるが、中でも特に気に入っているのがこのシーンだ。

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「放課後になった」というただそれだけの言葉。

立ち絵もなくただ空だけが映される画面。

しかし、このシーンこそが『ラムネ2』という作品のエッセンスが凝縮されたシーンなのだ。

神谷の「やかま」っぷりがこの一言に端的に表れており、「ウザい」と言いたくなるけれど、そのウザさが愛おしくてしかたないという感情が湧き上がってくる。

「放課後」というだけでそれが一つのイベントとなる作風も象徴している。

 

そして、何よりも感じる、夏――。

 

未プレイのかたは、是非ともご自身でプレイしてみて、この「雰囲気の良さ」を感じていただきたい。

www.youtube.com明るい曲なのに、聴いてると何故か涙が出そうになる。

 

初代『ラムネ』の主題歌「ラムネ」(歌:Duca)

www.youtube.com2の曲も好きだが、一番好きなのはこの曲だ。

【狼と羊皮紙 第2巻(支倉凍砂)】"沈黙"する神

(※『狼と羊皮紙』2巻 ネタバレあり)

先月、映画『沈黙‐サイレンス‐』(以下『沈黙』)を拝見した。

「信仰」とは。また、信仰を持つ者にとっての「神」とは。

私自身は信仰を持たず、映画の内容を現実的に捉えることは難しかったが、それ故に「信仰」という存在を強く叩きつけられた素晴らしい映画だった(原作も拝読したが、かなり昔のことであまり覚えていないので今回は映画準拠で話を進める)。

 

ただ、今回書くのは『沈黙』についてではなく、ライトノベル『新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙』(以下『羊皮紙』)についてである。

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前作『狼と香辛料』では中世ヨーロッパ(風の世界観)での経済・商取引が主題だったが、その中で宗教(教会)の存在は非常に重要なものだった。

『羊皮紙』では聖職者を志す青年コルが主人公ということもあり、宗教が作品の主題となっている。

今回は先日発売された第2巻について主に書いていきたい。

 

修道士オータムにとっての「信仰」

公式サイトでの第2巻のあらすじは以下のようになっている。

港町アティフでの聖書騒動を乗り越えた青年コルと、賢狼の娘・ミューリ。恋心を告げて開き直ったミューリから、コルは猛烈に求愛される日々を送っていた。
 そんな中、ハイランド王子から次なる任務についての相談が。今後の教会勢力との戦いでは、ウィンフィール王国と大陸との海峡制圧が重要になってくる。そのため、アティフの北にある群島に住む海賊たちを、仲間にすべきかどうか調べて欲しいというのだ。
 海賊の海への冒険に胸を躍らせるミューリであったが、コルは不安の色を隠せない。なぜなら海賊たちには、異端信仰の嫌疑がかけられていたのだ。彼らが信じるのは、人々が危機に陥ると助けてくれるという“黒聖母”。不思議な伝説が残る島で、二人は無事任務を遂行することができるのか――。

 これだけを見ると、海賊を相手取った冒険譚のような内容にも見えるし、劇中序盤でミューリもそれを期待している様子だったが、実際の内容は読者の予想とミューリの期待を大きく裏切るものだった。

 

本作の中で最も印象的だったシーンを尋ねたら、恐らく多くの人が「島の少女が奴隷商に売られるシーン」を挙げるだろう。

修道士オータムがその売買を指揮しており、そこにある罪、少女の父親の怒りなどを一身に受ける壮絶なシーンである。

「信仰がある故の自己犠牲」と言ってしまえばそれで片付くかも知れないが、そんなに簡単なものでもないだろう。

島全体を守るためとはいえ、修道士が人身売買など絶対に許されるものではない。

オータムは今回の件だけでなく、今まで幾度となく同じ事を繰り返し、その身に罪を背負い続けている。

少女の売買を終え、それを見ていたコルに向けてオータムが放った印象的な言葉がある。

「私は幸いである。神は、あらゆる罪をお許しになるのだから」

当然、言葉通りの「許してもらえるからラッキー」的な軽い意味ではない。

純粋な信仰がある故に、神の教えを信じて、自分が正しいと思うことを愚直なまでに貫けるのであろう。

もし、オータムに信仰がなく、ただ島を守りたいという正義感のみに突き動かされているのだとしたら、罪の意識や重圧に押しつぶされてしまってこれを続けることはできなかっただろう。

また、島の人々にとっては、幼い子供が奴隷に売られるなどということもなかっただろうが、そういった「間引き」をしないことには島はあっという間に滅びてしまっていたはずだ。

 

オータムを恨みに恨んで生き続けるか、すぐに終焉を迎えるか。

 

この選択自体もどちらが正しいかなどあるはずもない。

忘れてならないのは、この劇中で「信仰に従って自分の信念を貫き通した善人」という印象を持たせるように描かれたオータムだが、それが本当に正しかったかどうかは、それこそ「神のみぞ知る」ものだということである。

 

『沈黙ーサイレンスー』との関係性

さて、冒頭にて『沈黙』について少し触れたが、『羊皮紙』2巻と『沈黙』両方を読んだ/見た方であれば、少なからずその共通性を感じることだろう。

「信じる者は救われる」とは現代日本においてはもはや冗談めかして言われる言葉であるが、極端な話をしてしまえば『羊皮紙』も『沈黙』も、この言葉についてひたすらに掘り下げた作品といえるのではないだろうか。

 

どんなに苦しい目に遭っても信じるものがあるから乗り越えることができる。

しかし、そもそもその宗教に出会っていなければそこまで苦しい目に遭わなかったのではないか。

永遠に答えが出ることのない問いだが、それ故に読者/観客はその作品を読み終えた/見終えた後もずっと自分の中で考えることができる。

本を読んでの感想で「考えさせられた」というのは安直で非常によろしくないものだというのはわかっているが、この両作品で深く考えさせられたのは間違いないだろう。

 

また、これは単なる深読みに過ぎないのかもしれないが、『羊皮紙』2巻の劇中にも『沈黙』の影響を臭わせるシーンがある。

神はなにをしているのだ。どうしてそこから出てこないのだ。祭壇の上で堂々と広げられている、雪が放つ仄かな光りに照らされた教会の紋章旗を睨みつけても、沈黙しか返ってこない。

 「沈黙」という単語が使われているに過ぎないという指摘もあるかもしれないが、この単語の意味するところが両作品とも共通している。

『沈黙』というタイトルは「切支丹たちがこれほどに苦しい思いをしているのに、なぜ神は沈黙したままなのだ」という意味合いで付けられている。

作品のテーマの共通性から見ても、この一節は『沈黙』に対するオマージュを示しているのではないかと踏んでいる。

 

全てはラストシーンへの布石

このように、今回の『羊皮紙』2巻は、前作『香辛料』を含めても恐らく最も重い内容となっていた。

しかし、前作からのファンであればわかっていると思うが、これらの重厚に作り込まれた本編は、全て最後にコルとミューリ(前作ではロレンスとホロ)がイチャイチャするための布石なのだ。

このように書くと、本編は不要でイチャイチャシーンだけ書いていればいいのではないかという勘違いも生まれそうだが、決してそういうことではない。

たとえ同じ内容のラストシーンでも、本編のシリアスさがなければ、その魅力は半減してしまうだろう。

本編の練りに練られた重々しさがあって初めて、あのラストシーンが輝くのである。

 

特に『羊皮紙』2巻については、作者の支倉凍砂氏もあとがきにて以下のように書かれている。

道中が重かった分、今回の最後のシーンは、結構お気に入りです。

作者自身もお気に入りのラスト。

その甘々っぷりを存分に楽しませていただいた。

 

華奢描写の大家・支倉凍砂

その甘ったるさを体中から発しているヒロイン・ミューリとその描写について詳しく書いていこう。

中世ヨーロッパ(風)の世界観とその文体は、ミューリの描写にも深く関わってくる。

 

たとえばこの文章。

(前略)ここでミューリという温かい湯たんぽのような少女のことを抱きしめ返したら、(後略)

現代を舞台にした作品では絶対に出ないであろう「湯たんぽのような少女」という言葉。

子供の体温の高さを情緒溢れる言葉で表現しており、ロリコン的にも非常にグッとくるものがある。

 

また、ミューリのその華奢さの表現も支倉氏は卓越している。

以下は霜焼け防止のためにコルがミューリの足に熊の油を塗るシーンである(まずこのシチュエーション自体が大変興奮する)。

皮膚の薄い華奢なミューリの足に油を擦り込みながら、言った。

ヒロインの足の裏の皮膚の薄さを描写したライトノベルがかつてあっただろうか。

「硬い・柔らかい」という表現は使用せずとも、ミューリの足の裏のふにふにした感触がこちらにまで伝わってくるようだ。

 

そして以下は、作品の世界観を発揮してミューリの華奢さを表現した"合わせ技"である。

ミューリの細い肩を掴むと、ぐいと引き離した。

ミューリの身体は華奢で、天使のように軽かった。

「天使のように」という表現は、現代が舞台の作品でも使えないことはないかもしれないが、神の教えに身を置くコルだからこそ説得力のある描写といえるだろう。

 

まとめ

真面目な話からいつもの性的な話まで、読者に様々な考察をもたらしてくれる『狼と羊皮紙』。

今後もその絶妙なバランスとヒロインの圧倒的な可愛らしさを期待していきたい。

 

(※5/22追記 本編『狼と香辛料』第19巻の感想・考察エントリも書いたのでそちらも是非。)

tkntkn0703.hatenablog.com